前編

「不死川さぁん!ここなんですけどぉ、数字が合わなくってぇ。教えてもらえませんかぁ?」
「ん?あー、……ここ、マクロ崩れてんなァ。そこ直せば合うと思うぜェ」
「あっ、ほんとだぁ〜!ありがとうございますぅ、さすが不死川さんっ」

態とらしい間延びした猫なで声と、落ち着いたテノールの声。分厚いファイルが並べられているラックを背に、私は息を潜めて気配を消す。そうして狭くて紙とインクの匂いが充満する資料室からふたりが出ていく音を聞いて、はぁと深く息を吐き出した。

「よかった…見つからなくて…」

私が必死に身を隠す理由、それは───。

営業一課の不死川さんは、社内でちょっとした有名人だ。営業成績は常にトップをひた走りし、顔はとても端正で地毛だという白髪と相まって色気がだだ漏れ。上司からは一目置かれ、部下からは慕われ、社内の女性社員の憧れの的という、イケメンという言葉はこの人のために存在しているんじゃないかと思ってしまうほど、とにもかくにも完璧な人なのだ。
斯く言う私も、例にたがわず不死川さんに憧れていた。私は営業二課の事務なので関わりはほぼ無いに等しくて、ただ目の保養として眺めているだけで満足していたのだけれど。

「……なんであんなこと、しちゃったかな…」

呟いた声は積み重なった資料の山に吸い込まれて消えた。そう、二週間前の週末にすべてが変わった。いや、変えてしまったのは自分だ。


***


私は、不死川さんと一夜を共にした。

営業課の上半期合同打ち上げが開催されたのは二週間前の金曜日。不死川さんももちろん同席していて、営業課の女性社員に取り囲まれていたのを端の席でぼーっと眺めていた。近づく勇気なんてものは持ち合わせていなくて、ただ同じ場にいられることに満足していたのだ。隣に座っていた、不死川さんのライバルと噂される営業一課の諸星さんに目をくれることもなく、ひたすらちびちびお酒を飲んでいたら。

「苗字さん、酒あんま進んでないね?」
「え?あ、はい…。あまり強くないので」
「ふぅん。これ美味しいからさ、ちょっと飲んでみなよ。度数低いし大丈夫でしょ?」
「……えっと、じゃあ…いただきます」

諸星さんにずいと勧められた乳白色の酒が入ったお猪口。随分強引な人だなと思いながらも、勧められた手前断るわけにもいかず、それを受け取って口につけ、くいっと傾けた。いい飲みっぷりだね、なんて隣で愉しそうに笑う諸星さんに愛想笑いを返した途端、じんと喉の奥が焼け付くように熱くなった。度数が低いなんて嘘じゃん、まんまと騙された。ぐにゃりと急激に視界が歪むのを堪え、慌ててお手洗いに立つ。
鏡に映る自分の顔は驚くほど真っ赤で、指の先まで熱く燃えるような感覚があるから相当酔いが回っているらしい。先に抜けさせてもらおうかな。どうせ事務員がひとり抜けたところで誰も気にしないだろうし。そんなことを思いながらお手洗いから出たら、諸星さんがお手洗いの前で待ち構えていた。浮かんだ薄ら笑いにぞわりと悪寒が走って、会釈をしながらその横を通り抜けようとした時、強い力で肩をがしりと掴まれた。

「ねぇ、苗字さん、大丈夫?酔っ払っちゃった?」
「っ、大丈夫です。先に抜けさせてもらおうかと…」
「そんなふらふらじゃ危ないしさぁ、俺が送ってくよ」
「えっ?いや、ひとりで帰れますので…!」
「はは、無理でしょ。力入ってないし」
「大丈夫ですから、あの、離して…っ」

にやにやと笑みを浮かべて肩を抱かれ、これは本当にまずい雰囲気だと身を捩るけれど、諸星さんの言う通り体に力なんて入らなくて。そのまま肩を抱き寄せられ店の入り口までずんずん進んでしまう諸星さんになんとか抵抗していた瞬間だった。

「諸星、部長が呼んでたぜェ」

背後から響いたのは、低く落ち着いたテノールの声。振り向かずとも、それは不死川さんのものだとわかった。憧れの不死川さんに、よりによってこんなところを見られてしまって体がびくりと強ばる。

「は?……ッチ、なんだよいいとこで…!不死川、見ればわかるだろ?俺はこの子を介抱してやってんの。お前から部長に言っといてよ」
「長谷部商事の件、てめぇ上に虚偽報告したんだってなァ…?」
「なっ!……あー、くそ!」

諸星さんが苛立ちを隠さず盛大な舌打ちをして、漸く体が離されほっと息をつく。彼はすぐさま打ち上げが行われている座敷に戻っていった。
はやく、はやく不死川さんも戻って。私は振り向けないままそんなことを願っていたけれど、いくら待っても不死川さんが動く気配はなくて。恐る恐るゆっくり振り向けば、綺麗なアメジストのような双眸と視線が絡み合って、その真っ直ぐさに思わず息を呑んだ。

「…苗字、だったかァ?」
「えっ、は、はい…」
「大通りまで送る。タクシー拾ったほうがいいだろ。そんなんじゃ電車で帰れねぇよなァ」

そう言って私の横をすり抜け、真っ先に店から出た不死川さんが、ただぽかんと固まる私に振り返って怪訝な顔をする。まず私の名前を知っていたことが驚きだった。会話のひとつもしたことがない、課の違う一介の事務員を不死川さんは認識してくれていたのだ。それから、親切にも大通りまで送ってくれるというのだ。驚きすぎて、都合の良い聞き間違いかと耳を疑いたくもなる。

「なにしてんだァ?」
「あっ!い、いえ、はいっ!」

おかしな目で不死川さんが私を見つめているから、慌ててふらふらと傍に駆け寄って、大通りまでひとりぶんの間を空けながら並んで歩く。酔っ払いすぎて、私は夢を見ているのかもしれない。隣を見れば不死川さんの横顔が視界に飛び込んできて、その男らしさと綺麗さに思わず胸が高鳴った。関わったことのない私にさえこんなに優しくしてくれるなんて、どこまで出来た人なんだろう。
ああ、どうしよう。やっぱり不死川さんが好き。ただの憧れが、もっと近付きたいという淡い恋心に変わっていくのがはっきりとわかった。ぼうっと不死川さんに見蕩れていれば、いつの間にか大通りに着いてしまっていた。流石は華の金曜日。タクシーも稼ぎ時だとばかりに空車表示で大通りを走り回っている。不死川さんが慣れた手つきで呼び止めた一台のタクシーが止まり、後部座席のドアが開かれた。

「大丈夫かァ?」
「はい、あの、わざわざありがとうございました。打ち上げ途中にすみません…」
「気にすんなァ。気ィつけて帰れよ」

こくりと頷いて一歩タクシーへ踏み出して。なんだか色々な感情がぶわりと込み上げてきて、気が付けば私は振り向いて不死川さんのシャツの袖をきゅっと掴んでしまっていた。

「あ……?」
「……っ不死川、さん…」

震える声で縋るように不死川さんの名前を呼ぶ。私は一体どんな顔をしていたんだろう。お酒で潤んだ視界で随分高い位置にある不死川さんを見上げたら、アメジストの瞳がおおきく見開かれて、次の瞬間背中を押されタクシーに強引に詰め込まれ、そして何故か不死川さんも乗り込んできた。驚く暇もなく、不死川さんは運転手に聞き覚えのない住所を伝え、それからずうっと窓の外を眺めていた。綺麗な高層マンションに着くまで、車内は静寂に包まれていたけれど、なんだか淫靡な雰囲気でもあった気がする。だって、後部座席の真ん中のシートの上で、不死川さんの長くて節くれだった綺麗な指が、悪戯に私の指に絡んでいたから。

着いた先は言うまでもなく不死川さんのマンションだったし、どうしてここに連れ込まれたのかわからないほど子供でもなかった。まるで三ツ星ホテルのようなエントランスを抜け、三機もあるエレベーターに乗り込んでも不死川さんはずうっと無言で。ただ繋がれた手は一時も離れることは無かった。アルコールが回って熱い指先には、不死川さんの少し冷たい指の温度が心地好くて、けれど身体まで燃えるように熱いのはきっとアルコールのせいだけじゃない。
この後のことを期待するように小さく息を吐き出して、不死川さんが静かに開いた扉に吸い込まれるように身体を滑り込ませる。例えば玄関で貪るようなキスが降ってくるとか、そんなことは無かった。かと思えば不死川さんがキッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルをひとつ取り出して、手を引かれて導かれた先はリビングを通り越したベッドルーム。黒を貴重とした部屋に、これまた黒で統一されたキングサイズのベッド。そこに腰を下ろした不死川さんが漸く手を離して、傍らで立ったままの私を静かに見上げた。

「選んでいいぜェ」
「っ……選ぶ、必要ない…。決まってる、から…」
「は、…上等」

リビングを繋ぐ扉が開かれたままで、その明かりだけが暗いベッドルームを照らす。不死川さんは熱の篭った瞳をぎらりと光らせて、薄い唇から赤い舌を覗かせぺろりと舌なめずりをした。壮絶なまでの色香にぞくぞくと身体が熱を帯びていく。掠れる声で、私はなんとか言葉を絞り出した。

「さき、シャワー…」
「いらねェ」

せめて身体を清めてからと思ったのに、遮るように腕を強く引かれ、気がつけば私は黒いシーツに沈んでいたし、上には不死川さんが乗っていた。イケメンはベッドの上でもイケメンなのか。スーツを纏う清廉なイメージの不死川さんが、シャツを脱いで鍛え抜かれた上半身を惜しげもなく晒すのを、金縛りにあったかのように見つめる。アメジストのような瞳に浮かぶ確かな情欲が嬉しくて、厚い胸板にそろそろと手を伸ばしたところでその手は不死川さんの大きな手に包まれ、次の瞬間には噛み付くように唇が重なった。やっぱりシャワー浴びたかったとか、今日の下着はなに着けてたっけとか、そんな考えはぐちゅぐちゅと絡まる舌に全部溶かされた。

「なァ。下の名前は?」
「んっ、……名前…、」
「名前、煽ったからには朝まで付き合ってもらうからなァ」


***


結果から言えば、不死川さんとのセックスはとにかく気持ちよかった。意識が飛びそうになるくらいイかされし、今までのセックスは一体なんだったのだろうと思うほどだった。どうせ一夜限りだから不死川さんが良いように扱ってくれてよかったのに、決して手酷くはしなかったし、むしろ挿入前に指や舌で何度も絶頂させられた。前後不覚になりそうな快感の中で、音を上げたのは私の方で、お願いもう入れてと半泣きで強請ってしまったのだ。

「はぁ……」

思い出してじわりと熱が蘇る。慌てて頭をぶんぶん振って、忘れかけていた資料漁りに取り掛かった。
あの日、本当に朝までセックスをして、崩れ落ちるように不死川さんが眠りについた瞬間、私はメイクも髪もぼろぼろのままなりふり構わずマンションを飛び出した。腰だって痛かったし膝もがくがく笑っていたけれど、とにかく帰る他なかったのだ。
いい夢を見させてもらったと思うことにして、私はあれからこうして不死川さんを避けている。あの日はきっと不死川さんも酔っていたんだ。そうじゃなければ彼が私を抱くはずがない。女の子なんて選びたい放題の不死川さんが、私を選ぶなんて有り得ないことだから。
逃げ帰ったのは、目が覚めて我に返ってあからさまな拒絶をされたくなかったからだ。私はいい夢を見たし、不死川さんは悪い夢を見ただけ。私の中で、不死川さんはただの憧れの人に戻るだけなんだ。

"名前、可愛い"

打ち付けられる腰と響く肌がぶつかる音の中で、何度もうわ言のようにあまく耳に吹き込まれたテノールの声が蘇って、ふるりと震える身体をひとり抱き締めた。

2020.11.11
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -