百日草の恋煩い01

頬を撫ぜる風がわずかに湿り気を帯びている。空を見上げればまだ陽の光が降り注いでいるものの、風上の空にはどんよりと厚い雲が足を伸ばしてきているのが見えた。一雨来そうだ、急いだほうが懸命だろう。右手には百日草を主とした供花、左手には手桶を携えて石段を登る。
友でもあり、兄でもある粂野匡近が死んで数ヶ月。今日は匡近が願ってやまなかった"風柱"になったことを報告するために寺の墓地を訪れていた。俺はてんで興味がなかったが、どちらが先に柱になれるか競争だと言い始めたのは匡近だった。この長い石段を登りきれば、彼が弟と共に眠る墓が見えてくる。最後の段に足をかけたところで一際強い風が吹き抜けた。すすきの綿毛がぶわりと視界を覆い、漸く風が凪いで目についた光景に俺はしばらく放心したように目を奪われた。
匡近の墓前で静かに手を合わせる女と、その傍らに佇む初老の男。女の頬には一筋の涙が伝い、肌は透き通るように白くいっそ病的なほどだ。ともすれば瞬きの間に消えてしまいそうに儚い雰囲気の女は、ただただ長い睫毛を伏せて祈りを捧げている。傍らの男は付き人なのだろうか。穏やかな笑みをたたえて女を見つめていた。俺は息をすることも忘れその光景に魅入っていたが、女が瞼を上げた刹那はっと我に返って小さく息を吐き出す。そうして女がこちらに気付いて目が合った途端に、どうにも言葉では言い表せない不思議な気持ちになった。生まれてはじめて覚えるその感情に、名前はつけられそうになかった。

「すみません、気付かずに長々と失礼しました。どうぞ」

高価そうな着物の裾で涙の痕をついと拭い、女は微笑みを浮かべて墓前から離れた。なんとなく気まずさを感じながらも俺は女に頭を下げ、横をすれ違うように匡近の墓前へと立つ。花立てにはすでに竜胆や菊などの立派な供花が立てられていて、自分が持ってきた供花は些か見劣りするように思えてならなかったが、かといって供えないという選択肢はなく少し間を空けて供花を立てた。隊服の懐に忍ばせた笹の葉の包みを取り出し、包みを解いて墓前に供える。おはぎの餡の香りがほのかにそこに漂った。そうしていまだに背後に人の気配があることに気付いて、このまま手を合わせるのは憚られたため振り返れば、またしても女と目が合って胸が小さく騒ぐ。内心の動揺に気付かれないように、余所行きの堅い声で女に問いかけた。

「…俺になにか?」
「いえ。匡近さんから聞いていた通りだなと思っただけです」
「…は?」
「不死川実弥さん。可愛くなくて可愛い弟だと、匡近さんからそう聞いていました」
「あんたは…、」

真っ先に気にかかったのは、妙に親密に匡近の名を呼んだことだった。それからどうして俺の名を知っているのか、匡近とはどういう関係なのか、そういった疑問が次々に沸いてきて問うために口を開いたが、終ぞそれが形となることはなかった。女が突然咳き込みはじめ、苦しげなひゅうひゅうという呼吸音が耳に届いたからだ。

「っおい、大丈夫か?」
「お嬢様、これ以上はお体に障ります。申し訳ございません、私共はこれで」
「あ、あァ…」

それまで一言も発していなかった初老の男が、女の丸まった背中を摩りながら深々と頭を下げた。戸惑っている間にも女を支えいそいそとその場を去っていくふたつの後姿を目で追いながら、一体なんだったのだとひとり眉を顰める。

"匡近さん"

女が鈴の音のような声で紡いだ兄貴分の名前は、これまで聞いたことがないほど慈しみや暖かさに溢れていた気がした。まるで、恋い焦がれる愛おしい男を呼んでいるように聞こえた。

「匡近…、もしかしてお前の女かァ?」

匡近が眠る墓は何も応えない。

「そんなこと一言も言っちゃくれなかったじゃねぇかァ」

匡近が眠る墓は、やっぱり何も応えなかった。けれどもそれがなんだとも思う。例えばあの女が匡近の情人だったとして、俺にできることはなにひとつないのだ。それに見たところあの女は、良いところの箱入り娘かなにかだろう。刀を振るう俺とはまるで住む世界が違う。あるいは心優しく誰からも好かれる匡近であれば別だろうが。恐らくもう二度と会うこともないだろう。気にかけること自体が無駄だ。そう、時間の無駄でしかない。それなのにどうして、あの女の顔が脳裏に焼きついて離れないのか。
匡近の墓前に手を合わせ、そもそもの目的でもある近況の報告をしながらも、閉じた瞼の裏をちらつく女の顔にどうしてか酷く心を掻き毟られていた───。


***


かねてより鬼殺隊と藤の家紋の一族は切っても切れない縁で結ばれている。かつて鬼殺隊の隊士に命を救われたという当主が恩返しと称して、鬼殺隊に無償で尽くしてくれるようになってから数多年が経つらしい。東京の各地に家紋の家は点在しているのだが、中でも鬼殺隊の本懐である産屋敷邸の近くに位置する家は、藤の家紋の一族の中でも特に裕福で、鬼殺隊に多額の融資すら行っている家だ。要するに俺たちはその家に対して頭が上がらない。彼らの有り難い計らいで平隊士にそこまでの関係は公表していないが、俺を含む柱の面々には周知の事実であるので、何らかの用でその家の敷居を跨がせてもらう際は身が引き締まる思いがする。
その日は産屋敷より件の家の当主に向けてしたためられた文を、非番の自分が届けるよう仰せつかった。文を懐に仕舞いこんで大きな門戸を叩き、女中に促されるまま立派な敷居を跨ぐ。通された部屋で畳に手を着き深々と頭を下げ、穏やかな笑みを浮かべる当主に文を渡した。その笑みにどこか既視感を覚えたが、結局どこでそれを見たのかは思い出せなかった。

「よろしければ、奥の間でお茶でもいかがですか」

女中がにこやかに聞く。大して時間に追われているわけではなかったが、畏まった空気に肩が凝り始めていたので、俺は静かに首を横に振った。

「いえ、お気遣いなく」
「鬼殺隊の方がいらっしゃるとのことで、旦那様が遠方から"けえき"という洋菓子を取り寄せられたんですよ。もしもお時間がございましたら是非」
「……では、少しだけ」

そこまで言われてしまえばかえって断りづらくなるものだ。洋菓子とやらに興味は無かったが、せっかくの心遣いを無下にするわけにもいかない。この家の人間と良好な関係を築いておいて損は無いだろうし、むしろそうしなければならないような気さえした。頷けば女中はにっこりと笑って廊下を先導し始め、気乗りはしないままにそれに続く。
それにしても広い屋敷だ。柱に任命されて自邸を与えられ、自邸すらひとりで暮らすには充分すぎるほどの広さがあるのだが、この屋敷は比ではない。延々と続く廊下を進み、角を曲がったところで視界が唐突にぱっと開けた。眩しさで目が眩む。漸く目が慣れてきて、その要因は中庭に所以していると気付いた。鹿威しの音がかこんと一定間隔で響く、錦鯉が泳ぐ池付きの広い庭だ。そして縁側にひとりぽつんと座りその池を眺めている人間の姿を捉え、俺は大きく目を見開いた。

「あんたは、墓の…」
「ご無沙汰しています、不死川様」
「あら、名前お嬢様とお知り合いで?」

咄嗟に出てしまった俺の声にこちらを向いた女が、小さく頭を下げて微笑む。ああ、まただ。またあの感覚だ。どうしてこの女を前にすると心が妙にざわつくのだろう。もう会うことはないと考えていたはずの女と、こんなところで再会してしまうとは。努めて冷静に、目をまるくする女中に首を振ってみせる。

「少し前に、友人の墓参りでお見かけを。藤の家紋のご一族だとは知らず、その節はご挨拶もせず失礼しました」
「いえ、お気になさらないでください。…君江、少し不死川様とお話をしても?」
「ええ、もちろんでございます。こちらにお茶をお持ちしますね」

気を利かせた君江と呼ばれた女中がいそいそとその場を去り、広い縁側には俺と女のふたりきり。話すことなどありはしないだろうに、人払いをした女の真意が読めず無意識のうちに眉が寄った。気品のある所作で隣を指した女に、とにもかくにもこのままでは埒が明かないため促されるまま腰を下ろす。ふわりと香った花のような香油に苛立ちを覚えたのはどうしてか。

「不死川様は父に用があったのですか?」
「…ええ、文を届けに参りました」
「ふふ」

聞かれたことをそのまま返したというのに、何がおかしいのかくすくすと笑い出す女に鬱屈とした感情が沸く。気がつけば俺は相当に顔を顰めていたらしい。女は大して心を込めずにごめんなさいと謝って続けた。

「畏まらなくていいですよ。匡近さんから聞いていたお話では、不死川様は私と年も一緒のようですし、この間のように普通にお話してくださるほうが嬉しいです」

再び耳に届いた友の名に、いつの間にやら膝の上で拳を握り締めていた。やっぱり俺の名を呼ぶ声とは随分違うななどと片隅で考えていたような気がする。それに普通に話せとこの女は言うが、外面を取り払うほどの仲ではないのだから無理難題だとも思う。あくまでも俺はお館様の使いとして来ただけに過ぎず、この女とも会うのはこれで二度目だ。例え女が匡近とどんな関係があったにしろ、俺には関係のないことなのだ。けれども気がつけば俺は静かに頷いていた。

「……善処はする」
「はい、そうしていただけると」

おかしな女だ。纏う空気が柔らかく、こうして手を伸ばせば触れられる距離にいても嫌な気はしない。けれど心はざわざわと騒ぐから落ち着かない。
いつまでこうしていればいいんだ。手持ち無沙汰に綺麗に整えられた中庭に視線をやって、不自然にならないように注意を払いながら長い息を吐き出した。何故俺がこうして他人に気を使わなければならない。そんなことを考えていれば、隣に座る女が小さく咳き込んだ。

「っ、けほ…」
「!大丈夫ですか。……どこか悪いのか」
「けほ、…いえ、大したことはありません。ただの風病です」

胸に手をあてて笑って見せた女の顔は、どうみても疲弊しているし弱っているように見える。病的なほど白く細い腕は見るからに痛々しい。恐らく風病などではなく、なんらかの病を患っているのだろう。苦しそうに咳き込む彼女の背に無意識のうちに手を伸ばしかけて、それがあとわずかで触れる間際、響いた女中の声に遮られた。

「名前お嬢様!ご無理は禁物です、さあ、部屋でお薬を…!」
「え、えぇ…。不死川様、…っけほ、すみません。また、いずれ…」
「……、あァ」

そうして女中に支えられふらふらと廊下の奥へと消えていく女を、俺はしばらく目で追っていた。その時の自分は一体なにを思い、なにを考えていたのか。ただ覚えているのは、匡近を呼ぶ彼女がやはり別人のように綺麗に見えたことだけだった。


2020.11.08
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