濃藍

次に不死川様が廓に訪れたのは、はじめて不死川様とお会いしてからおおよそ二週間後のことだった。本当に宣言通り鯉夏姐さんを名指しして、たまたま馴染みの主様についていらっしゃった姐さんの代わりに、私はまた不死川様の名代につかせて頂けることになったのだ。この二週間の間、何度不死川様のお姿を思い浮かべたことだろう。お怪我はしていないかしら、私のことを覚えてくださっているかしら。そんなことを何度も何度も考えたものだから、いざご本人を目の前にするとなると、妙に胸がざわざわと騒いで落ち着かない。襖の前ですぅはぁと息を吸ったり吐いたりしてから、覚悟を決めて襖の奥へ声をかけた。

「不死川様、名前です。失礼しても宜しいでしょうか?」

耳を澄ませて不死川様のお返事を待つ。けれども、暫く経っても一向に返答は来ないので、私はひとり首を傾げた。厠でも行っているのだろうか。そうなると主様の許可なくお部屋に上がらせてもらうことは禁じられているから、このままここで待たせてもらうしかない。
厠と考えて、ふとここまでの道筋を思い返す。あれ、そういえば私は厠の前を通ってきたはずだけれど、中に人の気配は無かったのでは…。

「……まさか…、中で倒れて…?」

一度悪い想像をしてしまうと、それはどんどんおおきく膨らんでいくものだ。どうしましょう、お内儀さんを呼ぶべき?でも、もし万が一中で不死川様が倒れられているとしたら、そんなことをしている猶予はないかもしれない。勝手に膨れ上がる最悪の予想に、遂に私は耐えられなくなってしまって、慌てて再び襖の向こうに声をかけた。

「不死川様、すみません!勝手ながら開けさせて頂きます!」

早急に襖に手をかけ開け放てば、微風が私の頬を撫でた。どうやら窓が開いているようだ。部屋をぐるりと見渡して目に飛び込んできた不死川様のお姿に、ほっと安堵の息を吐き出す。不死川様は開かれた窓障子の縁に頬杖をつくような体勢で、すうすうと寝息を立てていた。
たまたま背後を通りかかった禿の子を呼び止め、夏掛けの夜具を用意してもらう。それを受け取って忍び足で不死川様の元へ近付けば、起きていらっしゃる時よりもずっと幼く穏やかな寝顔が月明かりに照らされていた。長い睫毛と通った鼻筋、薄く形の良い唇。それから、横一文字に走る傷跡。痛々しいもののはずなのに、何故だかそれすら愛おしく思えてしまうのだ。
思わずじっと見蕩れてしまっていると、ひゅうと吹き込んできた初秋を思わせる風に不死川様がふるりと肩を震わせた。それもそのはずである。身に纏っているのは着流しだけで、さらには合わせをおおきく開いているのだからこれでは風邪を引いてしまう。合わせから覗く鍛え抜かれた肉体は、正しく男性特有のそれで、夜伽の経験がまだない私には目に毒だ。その肌にも無数の傷跡があって、その身体でこれまで数多の鬼を相手にしてきたのだと改めて気付かされる。あまり直視しないように気をつけながら、手に持っていた夜具を広げて、不死川様の背後に手を回した時だった。

「…っえ…!?」

突然身体が温かいものに包まれた。視界もそれまでとはまるで違っていて、頬に当たるのは少しだけひんやりとした硬い質感。何が起きたのか瞬時には理解できず、目を点にして固まっていれば、頭上から掠れた声が降ってきた。

「あ……?名前、なにしてんだァ…?」

紛れもなくその声は不死川様のもので、そこで漸く置かれている状況を理解した私は、口から心臓やらなにやらが飛び出そうになるのを寸でのところで堪えた。
頬に当たっているのは不死川様の厚い胸板だし、背中に回されているのは不死川様の逞しい腕だ。それになんだかもの凄くいい香りがする。ばくばくと煩く鳴る自分の心音が、こんなに密着した体勢だと不死川様に筒抜けになってしまっている気がして、慌てて身動ぎをする。けれどもまだ寝惚けているのか、不死川様は回した腕の力を抜かないものだから抜け出すことも叶わない。身体中の血が沸騰するんじゃないかしらと不安になるほど、私は今茹で蛸も顔負けの真っ赤っかになっているに違いない。

「あの、不死川様っ…!」
「待たせた挙句、寝込みを襲うたァいい度胸してんなァ」
「なっ、違います、それは不死川様が…!」

くすくすと空気を震わせて笑う不死川様はいつもより少し舌っ足らずで、そんなところにさえ胸を打たれてしまうのだから救いようがない。冗談だ、なんて笑いながら腕の力が抜かれ、不死川様は私から少し距離をあけた。解放されてほっとしたはずなのに、離れていった肌を冷たい風が撫ぜてほんの少し寂しさを感じる。そんな良からぬ考えを追い払うようにふるふると頭を振れば、不死川様は困ったように眉を下げて口を開いた。

「悪ィ、寝惚けてたわ」
「いえ、どうかお気になさらないで下さい」

誰かと勘違いなさったのだろうか。寝惚けながらも無意識に手を伸ばしてしまうような、そんな誰かが不死川様にもいらっしゃるのだろうか。
ふと過ぎった考えに途端に胸が苦しくなった。私と不死川様は、一遊女と主様なのだ。不死川様にもしも意中の方がいたとしても、私が気に留めることではないし、踏み込んでいいことでもない。一晩の癒しを与えるのが務めなのだから、そんなことを気にしていても仕方がない。それなのに、あの腕の温もりが私だけのものであったらいいのになんて、そんな遊女に有るまじき想いを、私はいつの間にやら心の内に抱いてしまっていた。
なんだかいたたまれなくなり、話題を変えようと不死川様のお顔を改めて見てはたと気付く。寝顔では長い睫毛に気を取られ見落としてしまっていたが、下瞼には薄らと隈が浮かんでいた。

「不死川様、あまり寝ていらっしゃらないのですか…?」
「あー、言われてみりゃそうだったかもなァ。朝方まで七日通しの任務だったんだよ」
「七日、ですか…。あの、ゆっくりお休みになられたほうが良かったのでは…?」

七日間の任務となれば、それはもう疲労も計り知れないものだろう。鬼狩り様方が夜通しどんな過酷な任務に当たっているのかは想像もつかないのだけれど、恐らく心身ともにすり減らしながらのものであることくらいはわかる。そんな中、寝不足で隈まで作って尚、不死川様が会いに来て下さったのはとても嬉しいが、同時に無理をして欲しくないとも思う。

「…言ったろォ。これは息抜きだ。おまえが気にすることじゃねェ」
「私でも、不死川様の一時の憩いになれているんでしょうか…?」
「どうだかなァ。夜這いなんざされちゃ、憩いにはなんねぇしなァ」
「よば…っ!?も、もう!不死川様、からかわないでください…!」

我ながら恥ずかしいくらい真っ赤に染まった頬を膨らませて不死川様に文句を言えば、不死川様は目を細めてくつくつと笑った。知れば知るほど、不死川様は第一印象とまるで違うお方だと思う。なんだか今日の不死川様はいじわるだけれど、垣間見える無邪気な一面に、少しでも気を許してくれているのかと思えば嬉しくないわけがなかった。
そして、不死川様のことを知れば知るほど、私の心臓は壊れたように高鳴ってしまうのだった。


***


通された座敷に上がって名前を待っている間、俺はうとうとと夢を見ていた。幼く可憐な少女が、目の前で泣きじゃくっている夢だった。俺の記憶にあるあの日の少女は、一度も涙なんざ流さなかったのに、だ。
どうして泣いていると声をかけても、少女は嗚咽を漏らすばかりでなにも答えようとしない。夢の中の俺は、何故か昔のガキだった頃の姿ではなく今の姿だった。泣き止まない少女を目の前にして、情けなくも狼狽えてばかりいる。どうしたものかと頭を抱えていれば、突然少女がぱっと顔をあげた。

お兄ちゃん、行かないで。置いて行かないで。

ぼろぼろと大きな瞳から涙を零して、しゃくり上げながらそう言ったのだ。小さな、触れたら簡単に折れてしまいそうな両手を俺に向かって伸ばして、お兄ちゃん、と繰り返し呼ぶ。その姿が、幼くして命を落とした実の妹に重なって、気が付けば俺はその身体を力強く引き寄せていた。

腕の中に感じる柔らかく暖かい感触に、朦朧としていた意識が徐々に浮上する。夢とは違う、あまりにも現実味を帯びた感触。ゆっくりと目を開ければ、名前の綺麗に結われた頭が目に入った。
あァ…?なにがどうなってやがる?なんでこいつは俺に抱き着いてる?
寝起きでまだ覚醒しきらない脳をなんとか動かして、身体を固くして縮こまる名前を見遣れば、映ったのはしっかりと名前の背中と腰に回した己の手。どうやら俺は、夢と現し世を混同して、少女を引き寄せたつもりが実際に名前を抱き寄せてしまったようだ。
抜き襟から覗く生白い項や、俺の胸板に触れる体温が高い頬、下腹に当たるなんとも言い難い柔らかさの膨らみを意識した途端、壁でもなんでもいいからとにかく頭を打ち付けたくなった。香油なのだろうか、花のような淡い香りが鼻腔を擽って、俺までぶわりと体温が上昇するような感覚を覚える。
冷やかしの言葉を並べつつ名前から距離を取ることでなんとかその場は収めたが、妙に騒ぐ心音は抑えられそうになかった。なにより俺の言葉や行動で、ころころと表情を変える名前が、どうにも可愛く見えて仕方がなかった。


「そろそろ帰るかァ」
「えっ…?」

実を言うと、今日はこのまま廓に泊まっていってしまおうかと当初考えていた。安くはない金を払っているのだし、朝早くここを出れば明日の任務にも支障はない。もっと言えば、いつだか宇髄の野郎から受け取ったとち狂った文のことがあったから、ここでノコノコと帰れば俺が変に意識をしているようで癪に障る。けれど、いざこの状況に立たされてみれば、なんの気なしに同衾するなんざ出来る気が到底しなかった。名前を隣に置いて、正気でいられる自信がまったくもってない。
とにかく頭を冷やしたかった俺は、じゃあな、と声をかけて立ち上がったのだが、着流しの裾をくんと引かれる感覚に足を止めた。

「…ん?」
「あっ……すみません、思わず…」

裾を掴んでいたのはほかの誰でもなく、名前だった。自分でも驚いたのか、慌てて手を引っ込めると眉を下げて視線を彷徨わせている。
俺はと言えば、その仕草に深い溜め息を漏らさざるを得なかった。
クソ…!なんだってんだ、勘弁しろォ…。人がせっかく色々堪えてやってんのに、こっちの気も知らねぇで。やっぱりおまえ、遊女に向いてんのかもなァ。そんな顔されちゃ帰りたくなくなんだろーが…!
とは流石に口に出さず、代わりにひとつの提案をすることにした。

「次に来た時は、泊まってくわ」
「は…っはい!」
「はは、いい返事だなァ」

本当に嬉しそうに瞳を輝かせるものだから、釣られて笑って頭を撫でる。犬みてぇだなァ、と言えば、不死川様にだけです、なんて殺し文句が返ってきて、今度こそ俺は言葉に詰まってしまった。そのまま何度か頭を撫ぜて、離れ難い気持ちを抑えながら座敷を後にする。
失った妹と重ねていた少女が、見事に女になって俺の目の前に現れた。いつの間にやら手懐けられていたのは俺のほうだったのかもしれない。次の非番は一体いつになるのかと考えながら、俺は濃藍に包まれる夜道を歩き出したのだった。

─濃藍─

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