つつじ色

雲雀の鳴く声で微睡みから目が覚めた。
丁度良く酒が入っていたこともあってか、昨晩は久方ぶりにゆっくりと眠りにつけた。頭もいつもより冴えている気がする。まだ早朝だろうし、昼前まで再び眠ることも出来たが、昨日は鍛錬の暇もなかったことを思い出せばそれも憚られた。くあ、と欠伸を噛み殺しながら布団から起き上がる。その流れで布団を素早く上げ、障子を開け放てば朝日の眩しさに少し目がくらんだ。

溜まっていた洗濯を終え、朝餉を拵えてそれを平らげ、汚れた器や皿を流しで洗い、上がり口から屋敷の敷地内にかけて枯れ葉を竹箒で掃き終わる頃には、もう随分と日が高くなっていた。鬼殺がある普段は帰りが早くて朝方、遅ければ昼間、中には日をまたぐ長期の任務もあるのだから、こうした屋敷のことは必然と非番の日に纏めて行うことが殆どだった。そうはいっても、物が散乱する居住空間というのは好かないので、常日頃から整理は心掛けているつもりだが。女中でも雇えば留守中も何かと楽なのだろうが、赤の他人に屋敷に上がられ居座られると考えると気が乗らない。ふと頭を過ぎった夕べの遊女の顔に、思わず噛み締めた奥歯がぎしりと鳴った。何故そこであいつの顔が出てくる。或いはあの女なら、と一瞬でも考えた自分に怫然とした。
平静を取り戻そうと、何の気なしに縁側から空を見上げる。天色に浮かぶ薄いしらす雲は、いつだかの空模様とまるで同じだった。

「…あの日も、こんな空だったなァ」

もう十年程前の光景は、今でも決して色褪せることはない。


今日と同じ、しらす雲が浮かぶある日、俺は京橋の外れで血塗れの骸の傍らに茫然と座り込む少女に出会った。骸は父親だろうか。獰猛な獣にでも襲われたのか、着物は裂け、鋭い爪痕は肉にまで到達し目も当てられないほどの裂傷が見て取れた。今でこそあれは獣の仕業などではなく、正しく鬼による傷だったとわかるのだが、当時の俺は鬼なんてものも知らずにいたのだから仕方が無い。そんな俺はと言えば、あまりにも惨い死に様に思わず嘔吐きそうになっていたが、その少女は涙すら流さず、父親の血の気を失った顔をじっと見つめていた。まるで、肉親の最期の姿をその目に焼き付けているかのように。

「おい、大丈夫か…?」
「…お兄ちゃん、だれ……?」

齢にしてまだ十そこらのガキだった俺は、気の利いた言葉をかけられるわけもなく、かといって見て見ぬ振りも出来ず恐る恐る少女に声をかけた。小さな肩をびくりと跳ねさせた少女が此方に振り返った瞬間、俺は息を呑んだ。俺よりもいくつか年下に見えるその少女は、目を見張るほど可憐で、それでいていつ消えても可笑しくないくらい儚げな空気を纏っていたのだ。右頬にびっしりとついた返り血が生白い肌に映えて、余計に少女の危うさを助長していた。

「あ…、俺は…。いや、そんなことより、怪我はしていないか!?」
「だいじょうぶ…」
「そうか、良かった」

とにかくこんなところに居てはいけない。山道へ繋がっている京橋の外れと言えど、いつ人が通るかわからないのだ。ただ少女の父親をこのままここに置き去りにするわけにもいかない。どうしたものかと足りない頭で必死に考えた挙句、俺はその亡骸を肩に担ぎ上げた。

「お兄ちゃん…?お父さんをどうするの…?いや!お父さんを連れて行かないで!おねがい…!」
「埋葬するんだ。このままじゃ、おまえの父親は土に還らない」
「いや!一緒にいるの!いや!!」

それまで無表情だった少女が、悲痛な面持ちで俺の着物の裾を掴み、ぶんぶんと首を振る。背丈も体格も筋力もまだそこまでない未発達の身体で、力の抜けきった大の大人を背負うのは流石に厳しいものがあったが、震えそうになる脚に鞭を打って少女へ向き合う。

「生き物は必ずいつか死ぬ。死んだら土に還る。…そして、いつかまた必ずどこかで会える」

正直もう限界を迎えそうな全身疲労の中で、なんとか左手を少女に向かって伸ばし、着物の袖で血をごしごしと拭ってやる。目つきが悪く、特に同年代の子供から怖がられることは自分でもよくわかっていたので、努めて優しく笑いかければ、少女は大きな瞳をさらに大きくして瞬きを数回繰り返した。

「ほんとう…?また会える?お父さんと、お母さんにも会える?」
「うん、会える。だから早く、埋めてやろう」
「……うん、お兄ちゃん、ありがとう」

にっこりと花が咲いたように、少女は笑った。その顔があまりにも眩しくて、綺麗で、羨ましかった。
山道を少し登って見える平面になった崖の淵。ふらふらになりながらも辿り着き、全身泥まみれになることも厭わずふたりがかりで穴を掘り、そこへ亡骸を横たわらせて埋めた。何か供えるもの、と思ったがそういった類のものは生憎持ち合わせておらず、辺りをきょろきょろと見渡して目に付いたのは、獣道の脇に咲くつつじ色の天竺葵。それを一輪摘み取って、盛り上がった土の上にそっと置いた。

「お父さん…」
「大丈夫だ」

子供ながらに、目の前の少女をなんとか安心させてやりたかったんだと思う。泥まみれの手を乱雑に着物で拭ってから、小さな頭に手を乗せて撫ぜる。少女はぎこちなくはにかんで、それからふたりで即席の墓前に手を合わせた。どうかこの少女に、これ以上の悲しみが訪れませんように。俺は確かにそう祈ったような気がする。
それから山を下りて、日暮れも近かった俺たちは町の入口で別れた。今であれば幼い少女をひとり放っておくわけがないのだが、当時の俺はまだまだ幼く、近くに身寄りがあるだろうと勝手に思い込んで笑い合って手を振った。またすぐにどこかで会えるだろう。そう思っていた。
だが、その少女と俺が二度と会うことは無かった。何日も何日もあの墓に通ったが、少女の姿も無ければ、供えたはずの天竺葵も見当たらなかった。風でどこかに飛ばされたのだろう。ぽっかりと胸に穴が空いたようだった。月日が経つにつれて次第に薄れていく少女への淡い思い。それから俺の母親が鬼になったのは、おおよそ五年の月日が流れた頃だった。


昨晩出会った遊女、名前の顔がかつての少女と重なる。あれから十年も経っているのだから、あの時の少女が今どこでなにをしているのか、そもそも生きているのかすら不明だ。だが、笑った顔や纏う雰囲気がそっくりそのままだった。名前は、きっとあの時の────。
木に留まっていた雲雀が飛び立つ羽音で我に返る。長いこと物思いに耽ってしまっていたようだ。頭を掻き毟って、深い溜め息を吐き出しながら竹刀を片手に庭先に出れば、鴉が屋根瓦の上で羽を休めていた。すぅと息を吸い込んで、肺に酸素を、酸素を全身に巡らせるよう呼吸を意識する。深く集中すると、周りの音は忽然と消え、己だけの世界に入れるのだ。そうして何度か竹刀を振り下ろしていれば、突然その静寂を割れんばかりの鳴き声が切り裂いた。

「不死川実弥ィー!文!文ー!天元カラ文ィー!!」
「あ?」

ばさりと頭上に落とされた封皮を手に取れば、無駄にギラギラと装飾された鴉はすぐさま飛び去って行った。相変わらずの趣味の悪さから宇髄の鴉だと一目でわかる。あの男が寄越す文など碌でもないものに違いがないので、読まずに破り捨てようかと一瞬考えたが流石にそれはこらえた。縁側に腰掛け、中から書簡紙を引っ張り出せば、大層な紙に似つかわしくない、たった一行だけの文章。

同衾する際の新造への手出しは御法度だからな。

次の瞬間、手の中で書簡紙はぐしゃりと音を立て、たちまち塵あくたへと変貌を遂げた。額に青筋が幾つも浮き立つのが、自分でもよくわかった。

「クソがァ……なんの嫌がらせだあの野郎…」

わなわなと握り拳が震える。むんずと掴んだのは竹刀ではなく日輪刀。巻藁に宇髄を思い浮かべながら、ありったけの憤怒を込めて袈裟斬りすれば、真っ二つに割れたそれはどさりと地面に転がった。しかしどうにも腹の虫は収まらない。
なにが同衾だ。俺はそんな目的であいつに会いに行くと言ったわけではない。確かにあのあどけない可憐な少女が、その面影を残しつつ驚くほど美しく、おまけに色香まで纏った姿で現れたのは想定外だったが。
ただあの日を境に、彼女になにがあったのか、知りたいと思ったのだ。なにが彼女を遊廓という仄暗い世界へ足を踏み入れさせたのか、それが知りたかった。どうかこれ以上の悲しみが彼女に降りかからないで欲しいと願った幼き日の俺を、否定して欲しくなかったのかもしれない。だからこれは、決して恋心などといった浮ついたものではない。これ以上守るべきものを増やして、弱くなるのは御免だ。

不死川邸には、それから暫く剣が空を斬る音が鳴り響いていた。


***


名代もお座敷もない夜更け。私は自室の障子窓を開けて、闇夜を照らす有明月を眺めていた。たまに、無性に常闇が怖くなることがある。それは昔の記憶のせいなのか、或いはまったく関係すらないのか定かではないのだけれど、とにかく不安で寝付けない夜が一定の周期で訪れるのだ。
月明かりを頼りに文机の引き出しを開け、中から栞を取り出す。つつじ色の天竺葵を押し花にした栞だ。ときと屋に買われた際、私は何故だか天竺葵を懐にしまっていた。摩擦やなにやらですっかり萎れてしまったそれを、どうしてか絶対に失ってはいけないような気がして、慌てて押し花にしたのだった。
指先で花弁を辿ると、不安が幾分か和らぐ。不死川様のお傍にいたときも、同じように胸がぽかぽかとして、とても気分が凪いだことを思い出す。昨晩お会いしたばかりなのに、もう不死川様に会いたい。こうして不安に駆られる夜更けに不死川様のお傍にいられたらどんなにいいだろうと考えて、はたと我に返る。私ったら新造の分際で、なんてはしたないことを。今頃彼はきっと、生死をかけて鬼と戦っているかもしれない。ぎゅう、と栞を持った指先に力が籠る。

「不死川様、どうかご無事で…」

祈るように吐き出した声は、常闇に吸い込まれて露と消えた。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -