紫水晶

ここ吉原遊廓は東京浅草に位置する眠らない夜の街。
底知れず渦巻く欲望や羨望。着飾った女は麗しい笑みをたたえては、上客を我がものにせんと手をこまねき、おいそれと踏み入れれば金は湯水の如く溶けて消える。一見華やかで煌びやかな花街は、その実どろどろとした愛憎に塗れた色里というわけだ。


***


私には両親がいない。加えて兄妹というものは元からいない。他人に話せば一言目に可哀想、二言目には寂しいだろう、そして最後には必ず、頑張っていて偉いなぁ、とまあそんな言葉が返ってくる。私は人様に褒めて頂けるような崇高な人生を歩んでいるわけではないし、毎回その返答に頭を抱えてしまう。でもひとつだけ胸を張って言えるとすれば。私は、私自身を不幸だと思ったことは無いのだ。

「名前、髪結いが終わったら鯉夏について座敷にお上がり」
「はい、お内儀さん」

そうだ、今日は鯉夏姐さんお目当ての旦那様が大盤振る舞いで買った座敷に上がる日だった。勿論、私は振袖新造として。十六になる歳、引込禿から振袖新造として新造出しをしてもらってから、もう幾ばくかで一年と半年が経つ。さらにもう半年もすれば、突き出して客人を取れる女郎となれる、はずだ。
思い返せばとてつもなく長い道のりだったように思うけれど、私の傍にはいつも温かい支えがあった。芸も学もない年端のいかない田舎娘を買い取ってくれたご楼主や、お内儀さん。直接叩き込まれる芸事や作法、教養には悪戦苦闘したけれど、それがなければ今の私はないのだし。それから、鯉夏姐さんはここときと屋を代表する花魁であるにも関わらず、常に優しく温かいお人柄で私を気にかけて下さる。さらには禿の子たちも慕ってくれて、これ以上を望むのは罰当たりだと思うほど、私は恵まれている。つまり、私はとても幸せ者なのだ。最愛の両親を殺したのが、鬼であったとしても。


***


「おいこら離せ宇髄ィ!」
「暴れんなって。いい加減腹括れよ、初めてでもねぇんだろ?」

ぐいぐいと馬鹿力で俺の腕を引く筋肉達磨のような同僚に、浮いた青筋が痙攣する。それなりの力を入れて腕を前後左右に振り回してみる、が、結果更に苛立ちが募るだけだった。なんでびくともしねぇんだ。こいつの握力はどうなってやがる。
半ば引き摺られるように花街を歩く俺に突き刺さる、好奇と同情と畏怖の視線に腹が立って仕方がない。クソが、見てんじゃねェ。そんな怨念をありったけに込めて睨み付ければ、顔を青くしてそそくさと散る通行人。あークソ、何もかも気に食わねェ。そもそもなんで俺が花街なんざ来なきゃなんねぇんだ。

「チッ……」
「んな顔してたら座敷に上がる前に追い返されるわ。もうちっと派手に良い顔しててくれ」
「あァ!?てめぇ誰のせいだと思ってやがる…!」

怒り狂う元凶である宇髄は素知らぬ顔で俺を引き擦り続ける。事の始まり、話は数刻前に遡るのだが。


半年に一度の柱合会議は特筆すべきことなく終わった。お館様も日に日に病状が進行しているご様子ではあったが、今日に限っては具合が良いらしく、ご壮健なお顔を拝むことが出来てほっとしたものだ。そこまではいい。問題はその後だ。

「煉獄、今日の夕刻、空いてるか?」
「むっ?すまんが今日は夕刻から調査が入っていてな!」
「そうか、そりゃすまなかったな」
「なにかあったのか?今日は不死川が非番だったはずだぞ!」

久しぶりの非番だ。一刻も早く帰って鍛錬に勤しもう。それからおはぎでも食って疲れを癒そう。そんなことを考えていた矢先だった。小耳に聞こえた煉獄と宇髄の会話に背筋が粟立ったのは。

「不死川」
「……あ?」
「非番なんだろ?夕刻付き合えよ」
「酒なら行かねェ」
「調査だ」
「調査ァ?非番だっつってんだろォ。んなもんてめぇひとりで行けや」

何が悲しくて漸く訪れた非番の日に、宇髄の調査に同行しなきゃならない。柱が連れ立って行くほどの鬼が出ただなんて噂も、先刻の会議で微塵も出なかった。疑心と面倒臭さを顕にした目を向ければ、宇髄はにやりと笑って俺の耳元に顔を寄せた。近ェんだよ阿呆が。

「いいか、よく聞け?場所は、花街だ」
「……帰るわ、じゃあなァ」

ほんの少しでも耳をかした俺が馬鹿だった。この俺が花街なんぞに喜んで食いつくとでも思ったのか。まったくもって心外だ。だが腹を立てる気力すら残ってない。なんでもいいから早く帰らせろ。

「まーてって。お前は適当に可愛い女の子と話してりゃいい。金は俺が持つ。タダ酒が呑めて、可愛い女の子と話せる。な?悪い話じゃねぇだろ?」
「興味ねェよ冨岡でも連れてけ。あいつも非番だろうがァ」
「駄目だ、あいつは地味だ。地味すぎる。女の子に気ぃ使わせるだろうが!」

知るか、とにかく俺には関係ねぇ。過去何度か花街に出向いたこともあるにはあるが、あの独特の空気は性に合わない。下世話な話、性衝動に悩まされるような歳でもなくなった。酒なら屋敷で晩酌してりゃ事足りる。

「他当たれ。俺は……、っておいなにしやがるてめぇ宇髄!!」
「ド派手に楽しもうぜ不死川!」
「あァ!?なに聞いてやがったァ!?」

ひらひらと振った手は、帰る、放っとけ、の意だった。それを、なにを血迷ったか宇髄ががしりと掴んで高らかに笑う。おい誰かこの脳内年中祭り騒ぎの筋肉達磨を何とかしてくれ。俺の血管がブチ切れる前に、こいつを遥か彼方に追いやってくれ。ちらりと周囲をねめつければ、とうとう俺の血管は限界だとばかりに音を立てて切れた。
……なァおい胡蝶、笑ってんじゃねェ。冨岡、てめぇは今どういう感情だ木の影からこっち見てんじゃねェぶっ飛ばすぞ。
おい……ふざけんな俺の貴重な非番をどうしてくれんだてめぇらはァ!!!


とまあ、そんな限りなく不毛なやり取りがあったのだ。思い返して腹の底から盛大な溜息が出た。
そもそも、だ。非番と言えど、俺にはこんな色里で油を売っている暇などない。こうしている間にも鬼は人間を喰らい、力を蓄えていることだろう。毎夜毎夜、鬼による犠牲者は後を絶たない。悪鬼をこの手で殺し尽くす為だけに俺は生きているのだから、己の鍛錬に有限の時間を使いたい。間違っても、酒を片手に女を抱く為に生きているわけではない。

「たまには息抜きしたって罰は当たんねぇよ」
「ハァ……早く終わらせろ、その調査とやら」

こいつには何を言っても無駄らしい。こうなれば抵抗するより早いところ宇髄に調査を進めてもらう方が手っ取り早く家路につけそうだ。それで明日の昼間、死ぬほど鍛錬すれば良い。こんな仕様も無いことに体力と気力を費やすのが馬鹿らしくなってきた。

「お、やっとその気になったか。調査は俺に任せて、不死川は派手に宜しくやっててくれ」
「やんねェわ……」

ぴたりと足を止めた宇髄に釣られて項垂れていた顔を上げれば、目が眩むような灯篭に照らされた大見世。ときと屋、ねぇ。見るからに敷居が高そうな佇まいに、通行人もどこか遠巻きにそれを眺めては通り過ぎて行く。なるほど、金がなきゃ敷居を跨ぐことすら叶わねェってわけか。

「で?こんな立派な見世で誰を買うんだァ?」
「そりゃおまえ、花魁だろうが」
「あ…?花魁だァ!?」

よくもまあ涼やかな顔で言えるもんだといっその事感心すらする。別に金に執着があるわけでもないし、むしろ使いどころと暇がない為に貯蓄はたんまりある。それでも大金を叩いて女を買おうという思考に行き着くことがないのだから、そこは流石宇髄と言ったところか。それこそその金でおはぎがいくつ買えるかなんて考え始めてしまえば、…いや、やめとけ俺、心の平穏の為に。

「色々聞き出すなら、その楼の一番上が都合いいんだよ」
「…そーかい、頑張れよォ」

宇髄は通い慣れた所作で敷居を跨ぐと、客商売にありがちな愛想笑いを浮かべる内儀に声をかけた。

「なぁ奥さん。鯉夏花魁にお相手してもらいたいんだが、あいてるか?」
「こっ、鯉夏…?あのぅ…旦那さん、失礼ですが一見さんですか?」
「あぁ、金ならある」

冷やかしかなにかかと疑われるのは百も承知だったのか、宇髄は懐に忍ばせた紙入れをちらつかせた。その厚みで内儀はぱっと顔を明るくさせたが、すぐに表情を曇らせた。

「それが鯉夏は今別の座敷に上がってまして……。名代でよければすぐに部屋を取りますが、いかがいたしましょ」
「名代か…。まあいい、それで頼む」
「はいはい、それはそれは。ありがとうございますぅ!」

太客を逃がさずに済んで、あからさまに顔を綻ばせる内儀に図太ェ神経だなとは思ったが、まあそんなもんかと気に留めず宇髄に続いて廓に上がらせてもらう。名代ってのは花魁の客が被った時に花魁候補の新造が代わって部屋に入ることだったか。興味すら湧かないので心底どうでもいいが。

「では、奥の部屋でお待ちくださいねぇ」
「不死川、先に行っててくれ。厠に寄ってから行くわ」

あー、早く帰りてェ。


***


「名前姐さん、名前姐さん」

鯉夏姐さんについて座敷に上がって半刻ほど経っただろうか。主様にお酌を終え、徳利を手に持ったままにこにこと笑みを浮かべていると、禿の子がひょっこり顔を出して声を忍ばせ私を呼んだ。主様に断りを入れて一旦席を外させてもらう。

「どうしたの?」
「お内儀さんが呼んでます。名代かもしれません」
「名代…、うん、わかりました。ありがとう」

そういうことならと見世の入口にいるお内儀さんの元へ行けば、案の定鯉夏姐さんの名代を言いつけられた。どうやら一見の主様のようだけれど、一体どんな方なのだろう。名代というのは、いつも緊張と申し訳なさを感じてしまう。鯉夏姐さんお目当てでいらっしゃったのに、新造の私が部屋に上がらせてもらうのは、なんというか、どうしても気後れしてしまうのだ。でもせっかくお越し頂いたのだし、精一杯務めなければと気合いを入れながら、襖の前から中へ声をかける。

「鯉夏花魁の名代を務めさせていただきます、名前と申します」
「……あァ、入れよ」
「はい、失礼いたします」

聞こえてきた声からして、この主様はかなりお若い方らしい。音を立てないよう細心の注意を払いながら襖を開け、膝をついて深く頭を下げる。それから顔を上げて一番はじめに目に付いたのは、橙の灯りを浴びて尚燦々と輝く紫水晶のような髪だった。

─紫水晶─

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