君在りて幸福

「名前、転けんじゃねェぞ」
「大丈夫です。不死川様が腕を掴んでくれてますから、転びようがありませんよ!……っあ、わわっ…!」

つん、と転がっていた石ころを踏んづけて体勢を崩したところを、不死川様に腕を引かれ片手で抱きとめられる。地面に頬擦りするのはなんとか回避できたけれど、頭上から降ってきたのはそれはそれはおおきな溜め息。

「言ったそばからてめぇはァ…!」
「っう、す、すみませんん…」
「次転けやがったら抱き抱えて運ぶからな」
「えぇっ!気をつけます…!」

呆れたように笑って、今度は腕ではなく手を取られ指が絡む。そうして歩き始めた不死川様を、自然と緩んでしまった締まりのない顔で私は追いかけた。

お墓参りに行かせてほしいと言ったのは私だった。あの日以来、私は父が眠る墓前に手を合わせてすらいない。遅くなる前に必ず帰りますからとひとりで不死川様のお屋敷を出ようとしたけれど、不死川様は俺も行くと言ってきかなかった。吉原を出たばかりの私が道に迷ったり、人様に迷惑をかけてしまうのを心配なさったのかもしれない。
丁度不死川様と出会った京橋の外れにある畦道に差し掛かったところで、不死川様は突然立ち止まって振り返った。不死川様の左手に抱えられた供花から、菊の花弁が一枚ひらりと舞って地面に落ちた。

「辛くねェか」
「いえ、外をこうして歩くのは慣れないので少し疲れますが、とっても楽しいですよ?」
「…そうじゃねェ。おまえにとってここは、辛い記憶の場所だろォ」

気遣うような口ぶりと表情から不死川様の言わんとしていることがわかって、私は笑ってかぶりを振った。この人は本当に、どこまでも優しい人だ。

「お互い様です。不死川様も生まれは京橋と聞きました。きっと辛い記憶が多い場所かと思いますが…、でも私はこうして不死川様と一緒にいられますので、辛いことなんてなにひとつありません。それにここは、不死川様と出逢えた大切な場所ですから」
「ん、……そうだなァ…」
「さぁ、行きましょう!」

繋いだ手に少し力を込めれば、不死川様は優しい顔で頷いて私の頭をふわりと撫でた。目を閉じてそれを堪能していたら、ふっと空気が揺れる音。

「ほら、行くぞ。屋敷に戻ったら気の済むまで撫でてやるから」
「大変です、早く行きましょう!」
「っふは、随分素直だなァ」

だって沢山撫でてもらいたいです。そんなことを返せば不死川様は嬉しそうに笑って、可愛い、なんて言葉をくれた。

そこから少し歩き、山道を登った先の切り立った崖の手前に着いた私は、目をまるくして固まってしまった。

「っ、これは…?」

記憶では土を盛っただけの簡易な墓が、見違えるような墓石になっていた。陽の光を浴びて輝く羽黒糠目石の、見るからに高価そうな立派な墓石へと変わっていたのだ。既に菊や竜胆の束が供えられている。それから、墓石の前には一輪のおおきな天竺葵。まさかと隣に立つ不死川様を見上げれば、不死川様は頷いて墓石の前に膝をつき、用意してきた供花の束を花立に挿した。

「本当は、おまえのお袋さんも入れてやれればよかったんだがなァ…。遺ってたのは、着物の切れ端だけだった。それだけでもと一緒に入れたが、勝手して悪かったな」
「そんなっ、まさか母の亡骸まで探して下さったんですか…!?不死川様がそこまでする必要なんて…!」
「俺がしたかったんだよ、気にすんなァ」

いいからこっちに来いと横に呼ばれ、申し訳ないやらなにやらで複雑な心持ちのまま隣に膝をつく。身請けまでしていただいて、その上不死川様とは関係のない他人の墓まで作らせてしまった。それで気にするなという方が無茶な話である。

「本当に、不死川様にはなんとお礼を申し上げたらいいのか…」
「礼だァ?んなもんいらねェよ。どうしてもっつーんなら、その不死川様ってのやめねェか」

その言葉に思わずきょとんとして瞬きを数回繰り返す。

「え?では、どうお呼びすれば…?」
「実弥」
「実弥様?」
「様はやめろォ。もう客じゃねェんだ」
「えっと、…実弥、さん…?」
「……っ、あー、うん」
「うぅ、なんだか照れちゃいますね…。実弥さん、実弥さん…」
「ッ、おま、もうやめろ喋んなァ…」
「え!?」

唐突なお咎めに驚いて目を見開けば、逸らされたお顔がほんのり赤くなっていて、照れていたのは私だけじゃなかったのかと嬉しくなってしまった。なんだか実弥さんが可愛らしく見える。失ったはずの穏やかな時間が、いま確かに流れていた。
それからふたりで昔のように墓前に手を合わせる。
お父さん、お母さん、暫く墓参りにすら来れずにごめんね。あの夜のことを忘れてしまっていてごめんね。ふたりが命をかけて守ってくれたお陰で、私は今もこうして生きている。そしてなによりも大切で愛おしい人に出逢えたの。ひとりはやっぱり寂しかったけれど、実弥さんがいてくれるからもう寂しくないよ。私がいつかそっちに行ったら、その時はまた抱き締めてね。
ふと横を見ると、やっぱり実弥さんはまだ目を閉じて熱心に手を合わせたままだった。暫くしてゆっくりと目を開け、立ち上がった実弥さんに口を開く。

「手を合わせて下さって、ありがとうございます。あの、両親にはなにを…?」
「あー…本当はこんな形でしたくはなかったけどな。名前の親父さんとお袋さんにはちゃんと挨拶しときたかったんだよ」
「挨拶、ですか?」
「大事な愛娘を攫っちまうからなァ」
「ふふっ。実弥さんのこと、きっと父も母もすごく気に入ると思いますよ?」
「そうかァ?」

きっとそうだ。父はもしかしたら、ほんの少しだけ怒るかもしれないけれど。でも実弥さんはこんなに素敵な人なのだから、父も好きになったに違いない。母もきっと、私が選んだ人ならと手放しで喜んでくれただろう。会わせたかったなぁ、なんて考えていれば、実弥さんは私におおきな手を差し出した。それに掴まらせてもらって立ち上がり、懐から栞を取り出して手渡せば、実弥さんはそれをしげしげと見つめたあとに首を傾げた。

「栞?」
「実は、実弥さんが以前供えて下さった天竺葵、私が持って来てしまったんです」
「あァ、おまえの仕業かァ」
「えへへ…。あ、そういえば知ってましたか?赤い天竺葵の花言葉」
「そんなもん俺が知ってると思うかァ?」
「あ、それもそうですね…!」
「てめ、」

むっと顔を顰める実弥さんの前に、墓前に供えられていた一輪の天竺葵をぱっと差し出す。ときと屋をでる際に、鯉夏姐さんが教えてくれたのだ。この前は教えられなくてごめんね、と。
天竺葵越しに実弥さんを真っ直ぐ見つめて、私はにっこり微笑んだ。

「好きです、大好きです、実弥さん。赤い天竺葵の花言葉は、君在りて幸福。……私は本当に、しあわせです」
「…へェ、良い言葉だな。俺も、名前がいなけりゃしあわせじゃねぇしなァ」

そうして綺麗に穏やかに、しあわせそうに微笑んだ実弥さんに抱き着いて、しあわせを噛み締めた。貴方がいるからしあわせで、貴方がいないしあわせなんてないのだ。そして、私も実弥さんにとってそうでありたいと強く願う。
きっと酸いも甘いも、様々なことが起こるだろう。けれどどうか、どうか最期の瞬間まで実弥さんがしあわせでありますように。

──これから始まるふたりの旅路を、赤い天竺葵が風に揺られ祝福しているようだった。


─君在りて幸福─

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