赤朽葉色

その日見た夢は、心の奥底に閉じ込めていたすべてを呼び起こす、鮮明な夢だった───。

父は薬師を生業とする、厳格で真面目な人だった。母は病弱で、私を産んでからは特に病状の進行が早かったが、とても優しく穏やかな人だった。私はそんな両親が大好きだったし、そんな普通のどこにでもある日常がずっと続いていくのだと思っていた。
けれどあの日、そのすべてが奪われ、私を取り巻く環境は一変した。
雨風が叩きつける荒れた天気の夜だった。父は薬を売るために山を下りていたので翌日まで帰らない。母とふたりきりの夜だった。隙間風がひゅうひゅうと音を立て、ぼたぼたと屋根に落ちる雨音も煩く、それがどうにも気になってしまって上手く寝付けなかった私は母の布団に潜り込んだ。
それからどれくらいの時間が経ったのか、突然響いた地鳴りのような轟音に目を覚ませば、屋根におおきな穴が空いていた。雷が落ちたのだと気付いた頃には、その穴からひょっこりと顔を出したものと目が合った。人間とは思えない鋭い牙と、白眼と黒眼が反転した恐ろしい怪物、正しく鬼がそこにいたのだった。固まる私を母は強く抱き締め、そしてその鋭い爪に、八つ裂きにされた。母の血で目の前が真っ赤に染まった。ああ、私もこの怪物に殺されるんだ。なんだか妙に冷静にそんなことを考えていた気がする。下卑た笑いを浮かべてにじり寄ってくる鬼をただ呆然と見つめていれば、翌日まで帰らないはずの父が飛び込んできた。父は鉈を鬼の脇腹に刺し、出来た一瞬の隙をついて私を抱き上げ走り出した。最後に見た母は、もう私が知っている母ではなかった。
雨でぬかるむ山道を、父は体勢を崩しながらも駆け下りていく。見上げた顔は、憎悪に満ちていた。おまえだけは絶対に殺させない、そんな言葉をかけられたような気がする。けれど鬼もそう簡単に獲物を逃がすはずがなく、漸く町の入口が見えてきたところで、追いかけてきた鬼の爪で父は背中に深傷を負った。口からも血が溢れて、さらに私の視界は赤くなった。それでも瀕死の父は諦めず、最期の力を振り絞って町に近づこうともがいた。迫り来る鬼は、すぐ後ろまで来ていた。けれどその時、日が昇った。いつの間にか雨は上がっていて、空が白けていたことにも気付かなかった。鬼は悲鳴を上げて、山へ逃げ帰って行った。私に覆い被さって守ってくれていた父は、もう事切れて動かなくなっていた。
そして私は、夢で何度も見た、紫水晶の髪の男の子と出会った。父を抱え上げて、墓を作って、天竺葵を摘んで、一緒に手を合わせてくれた。お兄ちゃんと呼び慕って、きっとあれが私の初恋だった。過ごした時間は半日かそこらだったけれど、それでも幼い私の中に残るには充分なほどよくしてもらった。もう帰らなければと申し訳なさそうにしているお兄ちゃんに、帰る家がないこと、身寄りがないことを言い出せなかった。子供ながらに、これ以上の迷惑はかけられないと思っていたのだ。大丈夫だよ、ありがとうお兄ちゃん。そう言って笑えば、お兄ちゃんも安心したように笑って、手を振って町の中へ消えていった。
その後なんだか寂しくなって、私は再びお兄ちゃんが拵えてくれた墓前に戻った。埋められたお父さんに、ごめんなさいと謝って、供えられた天竺葵を懐に忍ばせた。お兄ちゃんとの唯一の繋がりを、身につけていたかったのだと思う。
それから、ああ、そうだ。その途端に、どこからともなく現れた大人の男たちに私は連れ去られたのだ。あれが吉原の女衒であることに当時の私は気付かなくて、連れ去られる最中もお兄ちゃんが消えていった方向に泣き叫んだ。行かないで、お兄ちゃん、置いて行かないで、と。面と向かってあの時に伝えられていれば、何かが違ったのだろうか。けれども後悔しても遅く、私はそのまま吉原に売られ、幼心のまま絶望し悲嘆し、そうして辛く苦しい記憶にすべて蓋をして、ときと屋の禿になったのだった。


指で頬をなぞられる感覚に、私は目を覚ました。心配そうに私を見つめる不死川様がすぐ傍にいて、その指はやっぱり不死川様のものだった。ああ、泣いていたのか、私は。頬に濡れた感触があって、そこを辿るように優しい指が滑っていく。
どうして今まで気が付かなかったのだろう。不死川様があの時のお兄ちゃんだと。笑うと目が細まってなくなるところや、撫ぜる手の優しさや温度、紫水晶のような髪、すべてがお兄ちゃんそのものだったのに。

「お兄ちゃん…」

滅紫の瞳を見つめてはっきりとそう呼ぶと、それはおおきく見開かれた。頬を撫ぜていた指もぴたりと止まる。

「おまえ…思い出したのか」
「うん。全部、全部思い出したよ」

思わずあの頃に戻ったような口調で答えれば、不死川様は勢いよく上体を起こして、私を抱き起こすとそのまま腕の中に閉じ込めた。痛いくらいに力が込められるけれど、ちっとも嫌じゃなかった。

「不死川様は、覚えてくださっていたんですね」
「あァ、ずっと気がかりだったからなァ…。ここでおまえに会った時、生きていてくれてよかったと心の底から安心した」
「恩人を忘れるなんてどうかしていました。本当に、ごめんなさい」
「ふ、気にすんなァ」

私はこの人に、二度も救われたんだ。そして、二度もこの人に惹かれた。そうなるとすべてが、偶然ではなく必然だったのかとすら思えてくる。では不死川様が身請けの話をしたのは、もしかして。

「だから、身請けのお話を私に…?私があの時助けられたから、ですか?」
「あ…?俺がそんなお人好しに見えんのかァ?」
「だってお優しいから…」

一度腕を緩めた不死川様は、心底心外だとでも言うように眉を顰めて私を覗き込んだ。でもそれくらいしか理由が思い浮かばないのだから仕方がない。

「これでも鬼殺隊なんでなァ。それこそたまたま鬼から救った奴らも大勢いるが、流石に面倒なんか見てらんねェよ」
「……えっと、では、どうして…」
「ここまで言ってもわかんねぇかァ…?好いてる奴を自分の傍に置いておきてぇって思って何が悪い?俺はお人好しでもなんでもねェし、おまえは俺を優しいっつーけどよ、そんなん名前だからに決まってんだろォが。じゃなきゃ身請けしてぇなんて言わねェ」

一息にそう言って、不死川様はまた私をぎゅうっと抱き締めた。わかれよ、と耳元に吹き込まれた切ない声に胸が締め付けられる。でも、だって、不死川様が私を好いているなんて、そんなの、まだ醒めない夢を見ているようで。

「っ、でも私は、不死川様にもうこれ以上迷惑をかけるわけには…」
「迷惑かどうかはてめぇが決めることじゃねェ。迷惑なら最初っから言ってねェんだよ」
「でも、でも…!」
「もう見世に話は付けてきた。おまえは今日限りで遊女を辞める。晴れて自由の身だ。この先どうするかはおまえが決めていい、って言いてえとこだけどなァ。俺の傍にいてくれねぇか」

その言葉に、止まっていた涙が堰を切ったように溢れ出た。ぼたぼたと零れるそれは、不死川様の胸元をじっとりと濡らしていく。

「傍にいても、いいのですか。傍に、置いてくださるのですか…?」
「わかりきったこと聞いてんじゃねェ。俺はおまえをこの先絶対に離してやるつもりはねェ。例え廓にいた方がマシだって思おうがなァ」
「そんな、そんなの、不死川様のお傍よりしあわせな場所なんて…!」

行かないでと伸ばした手が、今になってようやく不死川様に届いた気がした。そうだ、不死川様のお傍よりしあわせな場所なんてこの世のどこを探しても見つかりっこないのだ。

「好きだ、名前」
「っ、わたしも、ずっと、昔も今も、不死川様をお慕いしております…っ!」
「ハァ……。やっとだなァ」

噛み締めるように吐き出された言葉に、涙でぐちゃぐちゃの顔を上げれば、不死川様は目を細めて穏やかに笑って唇が重ねられた。その口吸いは、少しだけしょっぱくて、そして驚くほど甘かった。


───こうして私は、この日をもって、これまで育ててくれたときと屋を巣立った。鯉夏姐さんは自分のことのように嬉しそうに笑って、禿は寂しそうに泣いて、お内儀さんは私を強く抱き締めてくれた。間違いなくここは、私の第二の故郷だった。僅かに哀愁を残して、けれど不死川様に優しく手を引かれ晴れやかな気持ちで大門を抜ける。
木々の葉が赤朽葉色に染まる、晩秋のうららかな季節のことだった。

─赤朽葉色─

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