浅縹

不死川様が見世にいらっしゃったのは、夜半の空気が色濃くなってからだった。お内儀さんからは座敷に上がらずそのまま寝屋に向かえとのことだったのだが、私の足取りはとても重かった。図らずして今日が湯浴みの日で、下ろし髪が崩れていないか気になるだとか、そんなのはまったく関係もなく、ただ不死川様にどのような顔でお会いすればいいのかわからなかったのだ。あれだけ会いたかったのに、またお顔が見たいと心から願っていたのに、いざその機会が訪れると途端に萎縮してしまう。もうお会いできないとすら思っていたので、不死川様が何故今になって再びいらっしゃったのか、まるで理由がわからないというのも不安を掻き立てた。律儀でお優しい不死川様のことだから、もう会わないと最後の別れでも告げにきたのかもしれない。それなら最後くらいは、しっかり遊女としての勤めを果たさなければ。
そんな覚悟にも似た思いを抱きながら、寝屋の襖の奥に声をかけた。

「……名前です、不死川様」
「あァ、開けていい」

ああ、本当に、本当に不死川様だ。不死川様の優しく包み込んで下さるような、低くて耳触りのいいお声だ。それだけで胸がぎゅうぎゅうと締め付けられるのだから、お顔を見たら私はどうなってしまうんだろう。なんだか既に涙腺が緩みそうなのを必死に堪えて、静かに襖を開け畳に乗り、三つ指をついて頭を下げた。

「名代を勤めさせていただきます。どうぞ、宜しくお願いいたします」

まるで初めて不死川様とお会いした時のようだと頭の片隅で考える。あの時は、まさかこうして不死川様にどうしようもないほど惹かれてしまうなんて思いもしなかったし、自分から色々と無下にしておきながら離れがたいだとか、あまりにも傲慢で未練がましいことを主様に思う日が来るとは想像もしていなかった。

「名前、そろそろ顔あげてくれねェか」

いつまでも頭を下げたままの私を怪訝に思われたのだろう。そんな声をかけられて尚、私はなかなか顔を上げられずにいた。不死川様のお顔を見てしまったら最後、みっともなく縋ってしまいそうだった。
行かないで、私を置いていかないで、と。
そうしてふと気付く。
……私は同じようなことを、昔誰かにも…?

「名前、」
「っ、不死川、さま…?」

いつの間に不死川様はこんなにもお傍にいらしていたのだろう。垂れていたこうべごと、抱き込まれるように温かい腕の中に包まれる。目の前いっぱいに、不死川様が纏っている浅縹の着流しが映っている。随分久しぶりに感じる覚えのありすぎる熱に、胸が苦しくて痛くて、そしてやっぱり嬉しくて、どうしたらいいのかわからなくなった。

「悪かった。急に顔も出さなくなっちまって」
「いえ…それは、私が……」

それは私のせいなのに。不死川様はなにひとつ悪くないのだ。それなのに不死川様はこうして、私の不甲斐なさや弱さまで纏めて背負ってしまう。この方は本当にお優しいから、遊女として満足にお勤めすらできない私を憂いて、身請けのお話をして下さったんだろう。

「名前、こっち向け」

頬に添えられた手に優しく上を向かされ、視界いっぱいに広がる不死川様のお顔。以前となにひとつ変わらず甘く微笑むから、心臓が鷲掴みにされる。ほんの少し困ったように眉を下げて、不死川様の親指が私の下瞼をすりすりとなぞる。白粉では隠せなかった隈のあたりだ。

「あまり寝てねぇのか?」
「あ、えっと……」
「俺のせいだよなァ…」
「っ、違います、不死川様のせいでは…」
「名前、おまえと話をしにきたんだ」

私の言葉を遮って話し出した不死川様は、とてもとても真剣な表情を浮かべていた。途端に心臓がばくばくと嫌な音を立て始める。とうとう、お別れを告げられるんだ。いやだ、いやです、聞きたくない。そう心は叫ぶのに、真っ直ぐな視線が私を捉えて離してくれなくて、耳を塞ぎたくても指の一本ですら動かすことはできなかった。
一体私はどんな顔をしていたのだろう。突然不死川様は表情を緩めて小さく笑って、ふわりと私の髪を撫ぜた。

「話は起きたら、な。少しでも寝れそうなら寝とけェ。…ちゃんと傍にいるから」

不死川様はそう言って私の腕を取って、敷かれた布団を捲りその中に私を抱き抱えたまま収まった。ぽんぽんとあやすように動くおおきな手が心地いい。不死川様の胸の中の温かさが荒んでいた心に染み込んで、ついに私の涙腺が壊れてしまった。胸元に顔を埋め声を殺して泣く私を、不死川様はなにも言わず、なにも聞かずにただ強く抱き締めていてくれた。そんな優しさにさえ切なくなってしまって、このまま時が止まってしまえばいいのにと、朝なんて来なければいいのにと女々しくも願わずにはいられなかった。

「不死川様」
「…ん?」
「抱いて欲しいと言えば、私を抱いてくださいますか…?」

思わず口をついて出た言葉に、不死川様はぴくりと身体を強ばらせた。嫌な沈黙が流れる。けれど撤回するつもりは毛頭なかった。これが最後の逢瀬になるのなら、せめて不死川様の温もりを感じたい。そうしたらきっとこの先、それを思い出に生きていける。
でも、しばらくの沈黙の後に不死川様は静かに首を振った。

「……抱かねェ」
「っ、…そう、ですよね…」

後悔や羞恥心でいっぱいになって力なく笑う私を、不死川様はまっすぐな眼差しで覗き込んで、額に柔らかな唇を押し当てた。

「いまは、なァ。ほら、もう寝ろ」

"いまは"。それがなにを意味するのか考える間もなく、再びぎゅっと強く胸の中に引き込まれ抱き締められる。ずきずきと痛む心はたしかにあったけれど、ここしばらくの寝不足や包まれる腕の安心感で、いつの間にか私は吸い込まれるように眠りに落ちてしまったのだった。


***


ほどなくして深い眠りについた名前を起こさないよう細心の注意を払って、細い首の下に差し込んでいた腕を抜く。行灯の明かりだけが照らす薄暗い室内でも、名前の目元に浮かんだ隈ははっきりと見て取れる。こうさせたのは恐らく自分なのだろうと思えば、申し訳なさを感じる一方で、もうひとつの思いが湧き上がってくる。
他のことなんざ考える暇もなく、もっと俺でいっぱいになればいい。抱くのはそのあとだ。こんなところで事に及ぶつもりはない。こいつを連れ帰ってからじっくり時間をかけて、どろどろになるまで抱いてやる。
名前本人には到底言えるはずもない、そんなあまりにも身勝手で独占欲の塊のような仄暗い感情が湧いて、目の前の女への執着ぶりに自分が末恐ろしくもなった。
瞼に触れるだけの口付けを落として、ゆっくりと布団から身体を起こす。物音を立てず襖を開け廻廊に出れば、夜更けともあってしんと静まりかえっていた。その中を見世の入口まで進むと、思ったとおりの人影が視界に入った。

「不死川様、どうかなさいましたか。名代で名前をつけていたはずですが、なにか不手際でも…?」
「いや、奥さん。あんたとご楼主に話があってきた」
「……承知しました。ここではなんですから、どうぞ奥へ」

すぐさま何かを察したらしい勘の良い内儀に連れられ、恐らく接見用だろう畳の間に通された俺は、楼主に向かって単刀直入に話を切り出した。

「この見世の振袖新造、名前を身請けさせていただきたい」
「やはりそんな話だろうとは思いましたが…。不死川様、名前はまだ突き出し前の新造でございます故、身請けというのはいささか急かと…」
「突き出し前だろうが、遊廓にそんな制約はなかったはずですが?」

ぐっと息を詰まらせたのは楼主だった。おおよそこの見世の稼ぎ頭ともなり得る名前を手放したくないのだろう。だがこちらとしても、これ以上名前をここに置いておくつもりはない。はぁ、とおおきく息を吐いて、俺はまっすぐに楼主を見据え再び口を開いた。

「身請け金についての話がしたい」
「……お心は変わらないようですね。承知しました。名前の身代金についてですが───」

─浅縹─

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