藤納戸

朝稽古を終えて縁側に座り、手拭いで汗を拭き取っていた頃だった。竹垣を越えてにゅっと顔を出した男に、不死川は苦虫を噛み潰したような顔で盛大な溜め息を吐き出した。

「胡蝶の次はてめぇかァ……。宇髄」
「よう、不死川」

せめて門戸から入ってこい、と怒鳴る気力もなく呆れれば、宇髄はけらけらと笑いながら門戸へ周り、庭を介して不死川の隣にどかりと腰を下ろした。

「ほれ、手土産だ」
「……フン」

宇髄が懐から取り出した小包からは、ふわりと餡の匂いがしている。察するに不死川の好物のおはぎだろう。ご機嫌取りでもするつもりかと不死川が更に腹を立てるのも露知らず、隣に座る大男は我が物顔で長い足を寛げた。

「胡蝶からなにか聞いたのか」
「ん?いーや、なんにも聞いちゃいねぇよ?」
「あァ…?ならなんでてめぇはここに来やがった」

説教でもされた暁には今度こそ己の血管が持たないだろうと身構えていた不死川は、宇髄の返答に眉を顰め真意を探ろうと横顔を睨めつけた。

「お館様が、おまえの様子がおかしいことに気付かねぇようなお方じゃねぇことくらいわかんだろ」

その言葉にびくりと肩を揺らしたのは不死川だった。どうにも不死川はお館様と呼び慕われる産屋敷に滅法弱く、それは敬慕や敬愛から来るものだが、お館様を決して失望させまいと躍起になる節があるのだ。そしてその産屋敷は、隊士ひとりひとりをよく見て、よく知っている。柱ともなればそれもひとしおで、ここ最近の不死川の変化に産屋敷が気付かないわけがなかった。鈍感な冨岡でなくともよく見なければ気付かないほどの些細な変化や揺れ動く心情を、産屋敷は類い稀なる観察眼でいとも簡単に見破ってしまうのだから、畏敬の対象となるのもなんらおかしくはない。

「ハァ……。あのお方には敵わねぇよなァ…」
「あんまり心労をかけてやるんじゃねぇぞ、不死川」
「わァってるよ…」

宇髄は横に座ってがしがしと頭を掻く同僚を一瞥すると、雲ひとつない秋晴れの空を見上げ、形のいいやや厚みのある口を開いた。

「俺には大事な嫁が三人もいる」
「は?」
「わかるか、三人だ」
「……あァ???」

突如なにを言い出すのかと、まるでおかしなものでも見るかのような不死川の不躾な視線にも宇髄の口は止まらない。不死川とてそんなことはとっくの昔から知っていることで、今更改めてされる理由がわからないのは仕方の無いことだった。こいつ頭大丈夫か、とさえその瞬間不死川は考えていた。

「命の順序も決めている。言うまでもなく、嫁たちがいちばん上だ」
「おい……まさかてめぇ、そのわけわかんねぇ自語りを聞かせるためにここに来たわけじゃねぇだろうなァ……?」
「ははっ、まぁ聞けって。順序で言えばいちばん下が俺なわけだが、俺は死ぬわけにはいかねぇ。俺が死ねば、嫁たちは誰が守る?」
「てめぇの嫁は、んな弱くねぇだろ」
「当たり前だ、誰の嫁だと思ってる!」

突然庭先に響き渡るほどの大声を張り上げた宇髄に、不死川は心底うんざりとした表情で耳に指を突っ込んだ。その蟀谷には青筋が数本浮いているのだから、不死川は相当に苛立っているらしいことが見て取れた。

「つまり、だ。なにが言いてぇかってな。おまえは守るもんが増えれば増えるほど、それに気を取られてテメェが弱くなると思ってるかもしんねぇが、そうじゃねぇってこった。まるで逆なんだよ」

───守るもんがあれば、人間ってのは必然と強くなる。強くならなくちゃならねぇ。そいつのところに、なにがなんでも帰らなくちゃならねぇからな。


***


騒がしい同僚が去っていった後も、不死川は縫い付けられたように縁側から動けずにいた。宇髄に心が読まれたようだった。
名前の元へ足を運ばなくなってから、もう一月が経っていた。不死川とて、なにも申し出た身請けを断られた故に落胆し悲観してこうしているわけではなかった。名前を他の男に触れさせたくない、いつでも自分の目の届くところに置いておきたいなどと強く、それはもう強く強く願っていたのは事実であるし、取り返しのつかないほど心身共に名前を深く愛し、求め欲しているのも事実ではあったのだが、不死川はふと考えてしまったのだ。

俺はなにも守れなかった男だ。
母も、弟も妹も、匡近も。
どこかで生きているだろう玄弥も、この手で直接守ってやることなんざできやしねェ。
そんな俺が、どうして名前を守ってやれる。明日の身すら保証できねぇ中で、しあわせだと笑ったあいつを、今度は俺が不幸にするんじゃねぇのか。
それなら廓に残り、天寿を全うできる普通の男に見初められて、そうしてどこかで普通に暮らしたほうが、よっぽど名前はしあわせなんじゃねぇのか。

そんなことを考えてしまえば、不死川は落ちていくだけだった。胡蝶がいつか言ったように、不死川は名前の本当のところを知らないまま帰ってきてしまったので、そして名前も不死川のこんな仄暗い心内に気付けるわけもないので、ふたりは擦れに擦れ違ったままなのだ。
しかしこの日宇髄が不死川邸を訪れたことで、歯車は再び動き出した。胡蝶や宇髄のお節介が功を奏した瞬間でもあった。

「どう考えても、どこの馬の骨とも知れねぇ奴に名前を渡すのは我慢ならねぇよなァ……」

不死川の口から吐き出された言葉は、屋根で羽を休めていた鴉が不穏な空気に身震いをする程度には禍々しい声音だった。
しあわせだなんだってのは俺が決めることじゃねェ。あいつが決めることだ。でも俺のしあわせは名前なしには成り立たねェ。どこかで普通の男と普通に暮らしていればいい?よくもそんなことを考えられたものだと、不死川は今になって腸が煮えくり返りそうだった。
守るだとか守れないだとか、そんなものは己への言い訳に過ぎなかったのだ。いざ傍に置いて、自分の命よりも大切になってしまった名前を失うことが怖いだけだった。宇髄に感化されているようで不死川としては癪だったが、失うのが怖ければ強くなればいいのだと改めて知った今、不死川の瞳には熱く燃えるような不動の意思が浮かんでいた。強くなって必ず、なにが起きようとも必ず、血反吐を吐いてでも這いつくばってでも名前の元へ帰ればいい。ただそれだけのことだ。
こうなれば必ずや名前を身請けしてここに連れ帰ってやる。嫌われてはいないはずだが、例え嫌われていようとも、いや少しは気にするかもしれないが、そんなのは大した問題ではない。どろどろに甘やかして愛でて、俺なしでは生きられないようにすればいい。純粋無垢な名前を染めていくのも悪くはない。むしろそうしたい。などと多少おかしな思考に陥っていることには、もはや並々ならぬ決意に満ちた不死川本人が気付くわけもなかった。


***


任務の前に訪れたのは懐かしい面影が残る京橋だった。墓参りには毎年訪れるものの、こうして街中に足を踏み入れるのはそれこそあの日以来だった。馴染みの顔も多いし、クソ親父のせいでなにかと噂にもなる一家だったので、同情の目を向けられたくなかったというのがひとつの理由だ。ただしいちばん大きな理由は、どうしてもあの惨状を思い出してしまうからだった。広がる血の海と陽を浴びて灰になっていく母の姿が、色褪せることなく鮮明に脳裏に蘇ってきてしまいそうで、どうにも耐えられそうになかったからだが、それがどうだろう。心は不思議なほど凪いでいる。これも名前と再会し、かけがえのない大切なものができたおかげなのかと思えば、とても穏やかな気持ちでそこに立てた。

「あらっ、アンタ…!もしかして不死川さんちの上の子かい…!?」

花屋に立ち寄れば、恰幅のいい初老の女性が目をまるくして傍へ寄ってきた。歳を重ねてはいるものの、昔よく俺を含め弟妹たちの面倒を見てくれた馴染みの奥さんであることがひと目でわかった。

「ご無沙汰しています」
「しばらく顔も見ないからどうしてるのかって皆心配してたのよ…!それにしてもまあ大きくなって…」
「奥さんもお元気そうで。すみませんが、供花を二束見繕ってくれませんか」
「こんな時期に墓参りかい?」
「ええ、そんなところです」

偉いねぇ、と微笑んだ奥さんに小さく笑って返せば、店の奥へと消えていった奥さんがやがて白菊や藤納戸色の竜胆を中心とした供花を二束抱えて戻ってきた。

「ありがとうございます」
「お代はまけておいたからね。また顔を見せておくれ」
「はい。お心遣い、痛み入ります。あぁ、それから───」


名前の元に、明日の夜顔を出すと不死川からの文が届いたのは、その晩のことだった。

─藤納戸─

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