木蘭色

(※注: 前半、名前付きのモブが出てきます)


「名前、名代だ。すぐ行けるね?」

お内儀さんにそう言われるがまま、私は駆け足で奥座敷へ向かっていた。
廻廊を走るんじゃないと何度言ったらわかるんだい!そんな風に背後からお内儀さんに咎められても、気に留められる余裕すらなかった。
辿り着いた座敷の襖を挨拶も忘れ開けてから、やってしまったとその場で頭を抱えたくなった。そこに居たのは鯉夏姐さんの馴染みの主様、掛川様だった。

「っ、失礼しました!申し訳ございません、ご挨拶もせず…!どうかお許しください、掛川様…」
「ふふ、平気だよ、名前。早く私に会いたくて走ってきてくれたのだろう?」
「あ……ええ、もちろんでございます、掛川様」
「可愛い子だ」

目尻を下げて口角を上げる笑みに、ぞわりと背筋が粟立った気がした。顔が引き攣りそうになるのをなんとか堪えて笑顔を作れば、掛川様は満足そうに浮いた笑窪を深めて、私を手招きする。その元へ向かう足取りは、鉛のように重かった。

にこにこと笑みを貼り付けてお酌をしながらも、気分は暗く沈んでいく一方だった。名代と言われ、不死川様がいらっしゃったのかと早とちりした挙句に遊女としてあるまじき失態を冒すなど、本当に言語道断だ。そもそも文も届いていないのだから、突然不死川様が訪れることはないとわかっていたし、なにより私は不死川様のお気遣いを無下にしたのだから、主様のお心を踏み躙るような遊女ともう会ってもらえるはずがない。それなのに身体は愚直に反応して、こうして馬鹿なことをしてしまうのだから、日に日に憔悴していくばかりだった。

「名前、どうした?元気がないようだが…」
「いえ、まさかそんなことはございませんよ。掛川様にお会いできた喜びを噛み締めておりました」
「ふふ、嬉しいことを言ってくれる」

思ってもいないことをすらすらと述べながら、心は罪悪感で押し潰されそうになる。不死川様とお会いする以前は、主様に喜んでいただくために、姐さまに恥をかかせないために、精一杯努めていたこのおべっかも、今となっては自分を磨り減らすだけの辛いものになっていた。どうしても考えてしまうのだ。目の前にいらっしゃるのが、不死川様だったらいいのに、と。

「名前」
「はい、掛川様?」
「今日は朝までゆっくりできるんだ。……いいかな?」
「っ、……はい、喜んで。鯉夏姐さんの名代として、精一杯勤めさせていただきます」
「謙遜しなくてもいい。君が相手で嬉しいよ」

ああ、今日もまた、地獄のような時間が訪れる。廓の掟に守られる突き出し前で本当に良かったと、遊女らしからぬ考えに苛まれ、心が蝕まれていく、地獄の時間が。


***


夜の帳が落ちた闇夜の中を、全神経を研ぎ澄ませて駆ける。狙うは鬼の頸ただひとつ。下弦の鬼が出たとの知らせを、胡蝶が鎹鴉から受け取ったのはつい数刻前のことだった。

「なかなか尻尾を出しませんねぇ」
「そもそも本当に下弦なのかァ…?」

同僚である不死川が横で訝しげに眉を顰めるのを一瞥して、胡蝶は再び鬼の気配を辿った。どうもきな臭いのだ。念のためこうして柱が二人も呼び出されたのだが、残る気配は仮に下弦だとしても十二鬼月とは思えないほど弱々しい。

「どちらにしても、死んでもらうだけですから」
「ハッ、斬っちまえば変わんねェよなァ!」

日輪刀を右手に携えて目を血走らせる不死川に、胡蝶はなんとも言い難い気持ちで小さく息を吐いた。
この強面で血気盛んな同僚は、ここ最近放つ気迫にさらに拍車をかけていた。胡蝶にはそれがまるでなにかを忘れようと、自暴自棄になっているようにしか見えなかった。そのなにかというのが、十中八九あの可愛らしい遊女のことであろうことも察しがついていたのだが。

「…本当に、ポンコツですねぇ」
「あ?なんか言ったかァ?」

ボソリと呟いた胡蝶のそれは、不死川には届かなかったようだ。届いていたとしたら、この同僚は今にも鬼顔負けの恐ろしい顔つきになっていただろう。なんでもないですよ、とかぶりを振る胡蝶に僅かに怪訝な顔をしただけで、不死川はまた前を向いて鬼の気配を辿ることに集中した。
胡蝶は呆れ顔を隠そうともせず、蝶柄の羽織りを靡かせ木が鬱蒼と茂る山間部を駆け回る。そもそも、だ。胡蝶とて同僚の色恋沙汰に首を突っ込みたくて突っ込んでいるわけではないのだ。あの不死川が女に入れ込んでいるというのは面白い話ではあるが、自分にはまるで無関係のことであるし不死川がどうしようと、どうなろうと、それはこの男の自己責任の範疇なのだ。齢二十を超えた男なのだから、自分のことは自分で決められるだろう。否、決められないのであればそれまでである。鬼殺隊を背負って立つ柱ともあれば、それができて当然なのだから。
しかし胡蝶の脳裏に浮かぶのは、可愛らしく美しい名前の顔。彼女の纏う雰囲気は、自分の最愛の今は亡き姉にどこか似ているのだ。名前は時折、こちらが驚くほど大人びて綺麗に、瞬きをすればその瞬間に消えてしまいそうに儚く笑う。鬼と共存できる世を望んだ姉も、優しく、そして儚く笑う人だった。胡蝶が名前を放っておけないのは、そのせいかもしれない。
彼女はこのままだと廓の闇に取り込まれる。本人が望んでいるのであれば他人がとやかく言えたものではないが、あの気の落ち様からすれば彼女も彼女なりに考えるところがあるのだろう。胡蝶とてできれば名前には、明るく陽のあたる場所でしあわせに生きてもらいたい。姉がそうできなかった分まで、しあわせになってもらいたいのだ。
不死川のことは知ったことではないが、けれども彼だけが名前の手を取ってやれることも確かだった。なので尚更、こうして無駄に己を削って燻っているこの同僚に、胡蝶は腹が立って仕方がなかった。

「…不死川さん」
「あァ…、血なまぐせェ鬼の気配がしやがるぜェ…!」

山の中腹辺りに差し掛かると同時に刺すような殺気を感じ、不死川に続いて胡蝶も日輪刀に手をかけた。漸くお目当ての鬼のお出ましのようだ。
ガサガサと茂みが揺れたかと思えば、宙へと高く飛び出したのは異形の鬼。多くの人間を喰ったようだが、やはり十二鬼月ではないらしい。気配が、あまりにも弱かった。

「胡蝶!飛べェ!!」
「まったく…、人遣いが荒いんですよ」

奇声にも似た笑い声を上げ木から木へと飛び移る鬼の下で、不死川は身を屈めた。胡蝶はその意図を瞬時に理解し、不死川の肩へと足をかけると反動を利用して宙高く舞い上がる。その様はまるで月夜を揺蕩う蝶のようだった。

「こんばんは。それから、さようなら」

擦れ違い様、胡蝶はにっこりと人好きのする笑みを浮かべて、日輪刀を目にも留まらぬ速さで鬼の胴体へ無数に打ち込んだ。どさりと地面へ落ちた鬼に、音もなく不死川が間合いを詰め、それから日輪刀で鬼の頸を跳ねた。けたたましい断末魔と共に塵と消えてく鬼を眺めながら、胡蝶が不死川の元へ降り立つ。

「惨いことをしますねぇ。すぐに毒が回って死ぬというのに、頸を斬る必要ありました?」
「あァ?斬った方が早ェだろ」
「それなら最初から不死川さんが斬ればよかったのでは?」
「チッ……!いちいちうるせェな、終わったんだからいいだろうがァ!」

不死川は青筋を幾つも浮かび上がらせて苛立ちを露わにしながら、乱雑に懐紙で刀についた血を拭い鞘に納めると、来た道を大股で歩き出した。一方胡蝶はおおきな溜め息を吐き出して、殺の字が刻まれた羽織に声をかける。本当に世話の焼ける同僚をもったものだ。

「いつまでそうしているおつもりですか?」

そんな胡蝶の声にぴたりと足を止めた不死川は、振り向かずともひしひしと伝わってくるいっそ凶悪なまでの殺気を放ち始めた。しかし胡蝶はそれに動じることもなければ、引くこともしなかった。

「先日、名前さんにお会いしましたよ」
「……」
「相当滅入っているようでした」
「……俺には関係ねェ」
「本気で仰ってます?一度振られたからと言って、いつまでうじうじしているんでしょうか。泣く子も黙る風柱様がこれほどまでに腑抜けだったとは、下の者たちにも示しがつきませんね」

刹那、空気が凍る。ゆらりと振り返った不死川は、そこらの鬼よりもよっぽど鬼らしい表情で胡蝶の元へゆっくりと歩み寄り、頭ひとつ分下にある微笑みを貼り付けたままの顔を見下ろした。普通の人間であれば背筋を凍らせ、腰を抜かしてしまうような眼差しだ。般若の面でも被っているのかと錯覚するほどの不死川の顔にも、しかしやはり胡蝶が動じることはなかった。

「胡蝶、もういっぺん言ってみろォ…」
「腑抜け、と言ったんです。なにか間違ったことを言いましたか?」
「てめェ……」
「不死川さんのことですから、どうせ言葉足らずに身請けしたいとだけ伝えたのでは?名前さんのお気持ちも聞かず、ご自身の気持ちすら伝えず、彼女がどんな気持ちで断ったのか理解しようともせず、それでのこのこ帰ってきたんですよね?」
「ッ、てめぇになにがわかる!外野が知ったような口叩くんじゃねェ!」

びきびきと浮き立つ青筋に、血走った目。不死川はふぅふぅと呼吸を荒らげながら、胡蝶に今にも掴みかからんとさらに距離を詰めた。一方で胡蝶は、貼り付けていた笑みを消して目を細め、不死川を見上げる。

「あんなに健気な方を泣かせたら承知しませんよ。今も名前さんは不死川さんを待っています。どうか、もう一度よーく考えてくださいね」

この不死川実弥という男は、誤解されがちではあるが心根は優しすぎるほど優しい男なのだ。様々な方面で、やり方は誉められたものではないのだが。生前の姉、カナエもそれをわかって、彼を放っておかなかったのだと思う。胡蝶があえてこのような物言いをするのは、同僚に優しく諭す労力を使いたくないのと、不死川なら自身で答えを導き出すことができると買っているからだった。それから、姉のような面影がある名前を不死川ならしあわせにしてやれると、胡蝶はその実信じているのだ。

「……言われなくてもわかってんだよ、んなこたァ…」

先ほどまでの人を殺めそうな怒気はなりを潜め、不死川がボソリと呟いたそれに胡蝶はやれやれと肩を竦め笑った。
木蘭色の月だけが、辺りを鈍く照らしていた。

─木蘭色─

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