紅梅色

行灯の明かりを消した部屋は暗く、窓障子から射し込む月明かりがぼんやりと名前を照らしていた。艶々とした下ろし髪に指を通しながら、まだ若干あどけなさの残る寝顔を立て肘をして見つめる。すうすうと静かな寝息を漏らすふっくらとした紅梅色の唇を、なるべく直視しないように気をつけながら。
不覚としかいいようがなかった。本気で手を出すつもりは毛頭なかったのだ。そりゃ何度も煽られていたしいつかは、それこそ身請けをしてからゆっくりと丁寧に時間をかけて俺を覚えさせて、俺なしでは生きていけないくらいに可愛がって、離れる気なんざ起こす暇もくれてやらず、そうして俺のところに落ちてきてしまえばいいと、我ながら酷く歪んだ感情を持っていたのはたしかだ。
けれど、それは今じゃねぇだろうが…。ここまで俺は堪え性がない人間だったか?いやでも、いっそ腹が立つほどに名前という女がクソ可愛いのが悪い気もする。本当にこの女は、底無し沼かと思うほどに俺を捕らえて離さない。ここ最近は己の欲望と戦う日々が続いていた。会うたび愛おしさは増すし、着物をひんむいて鳴かせたくなるのだから、いよいよ自分の体裁が危ない。

「ぅ……んん……しな、ずがわ、さま…」
「ッハァ………クソ、かわい…」

髪を撫ぜる手に無意識に擦り寄ったかと思えば、寝言で俺の名前を呼ぶ。思わずぐっと息が詰まった。
一体なんなんだ、このクッソ可愛い生き物は。おまえ、覚えとけよ。身請けした暁には、滅茶苦茶、それはもう死ぬほど滅茶苦茶可愛がってやるから覚悟しとくんだな。
だとかなんだとか、脳内でのたうち回りそうになるくらいにはもうこの名前が心の底から可愛くて仕方がない。

「しあわせ、なァ…」

呟いたその声は、自分でも思った以上に感慨を含んでいた。白くまるみがある頬をふにふにと指先で弄れば、名前はふにゃりと表情を緩ませるから、つられて俺までふっと息を漏らし口元が緩む。
俺は、柄にもなく恐れていたのかもしれない。母や弟妹のことを話せば、名前が俺を見限り、離れていくのではないかと。今でも思い出せば四肢が千切れるような痛みが走ってどうしようもなくなる暗く重い過去を、こいつはどんな顔をして聞くのだろうと、本当は気が気じゃなかった。それがどうだ。名前は悲嘆し侮蔑するでもなく、かといって同情するでもなく、母や弟妹たちはしあわせだったはずだと、そう言ったのだ。その上で、自分もしあわせだと、俺が生きていてくれてしあわせだと、そう言って美しく微笑んだのだ。

「そんなもん…俺の台詞だろうがァ…」

名前が生きていてくれて良かった。いつだって心の奥底に、あの日の少女のことがしこりのように残っていた。こうして俺の前に再び現れてくれて、感謝を言いたいのは俺のほうだ。

「ん……、?」

頬をするりと撫でると、名前が薄目を開いて俺を捉えた。ゆっくりと瞬きを繰り返す名前を覗き込んで、顔にかかった一筋の髪を払い除けてやる。

「わりィ、起こしたか?」
「……おに、ちゃ…」
「ッ、……名前?」

随分長いこと呼ばれていなかったその呼び名に、どくりと心臓が跳ねた気がした。しかもそれが名前の口から飛び出るとは思ってもいなかったので、まさか昔のことを思い出したのかと薄い肩を思わずがしりと掴んでしまった。

「っあ、…あれ、不死川様…?」
「は、………はは、そうだよなァ…」

きょとんと固まる名前に、乾いた笑いが口から漏れた。寝惚けた頭で吐かれたなんの意味も持たない言葉に、一瞬でも昔を思い出したのかと、俺のことを思い出したのかと期待してしまった自分があまりにも愚かで零れた笑いだった。何故忘れているのか、その理由は明白だったのに、だ。こいつにとって昔の記憶は辛く悲しいもので、己を保つために自ら閉じ込めた、言わば不開門のようなものなのだ。それをわかっていながら俺を思い出してほしいなど傲慢でしかない。ぎり、と握り締めた拳の中で爪が肌に食い込んだ。

「不死川様…?眠れなかったのですか…?」
「いや、目ェ覚めたんだよ」

てめぇを眺めんのに忙しくて寝れなかったんだよ、とは流石に言えず適当に返すことにする。それに寝れなかったっつったら、余計な心配すんだろうが。こいつが。

「っえ、まさか…鼾でもかいていましたか!?」
「あ?……っふは、…あァ、すげぇ五月蝿かったなァ」
「えぇ!?す、すみません、私ったら…!」
「ふ、信じてんじゃねェ」

ぱちんと指で額を弾けば、名前は薄ら涙を浮かべて口を尖らせるからそれがまた恐ろしく可愛くて、だらしなく口元が緩んでしまう。こんな顔、鬼殺隊の奴ら、特に他の柱には死んでも見せらんねぇなァ。なにを言われるかわかったもんじゃねェ。嫌にぞっとして笑いを引っ込めれば、名前は小首を傾げて俺を見上げた。
月明かりに照らされておおきな瞳は妙に潤んでいるように見えるし、散々重ねた唇はぽってりと赤いしで、ぐらりと視界が揺れる。
クソ、もうやめとけ俺ェ。廓の掟を破ってまで欲に忠実になっておきながら、まだ足りねぇってのか。いや、名誉のために言っておくが唇を重ねただけだ。舌も入れてねぇし、我ながらよく耐えたと思う。だからもうやめとけ、次は耐えられる気がしねェ。あー……、でもそもそもこいつが許したんじゃなかったかァ?もっとして欲しいだのなんだの一丁前に煽りやがったのはこいつだ。そうなりゃ堪えてんのも馬鹿みてぇだよなァ。据え膳食わぬは、とかなんとか言うしなァ。
そんな俺の阿呆みてぇな葛藤も露知らず、名前はうるうると俺を見つめるのだからこいつは本物の馬鹿なんだろう。ハァ、ともの凄く深い溜め息を吐き出しながら、三寸程の間を空けて顔を近付ければ、名前は目をまるくした。けれどすぐにその意味を理解したのか、顔を真っ赤に染めながら強く目を瞑るものだから、思わずにやりと口角が上がるのが自分でもわかった。随分もの覚えがいいこった。ああ、クッソ可愛い。

「名前、目、開けてろォ」
「……っえ?」
「して欲しかったら、目閉じんじゃねェ」
「っ、え、……う、…はぃ…」

恐る恐る開かれた目に、自分の中の醜い欲がむくむくと膨らんでいく。大事にしたいし優しくぐずぐずになるまで甘やかしてやりたい。その一方で、俺だけしか考えられなくなるように、このおおきな瞳に俺だけしか映らないように、ぐちゃぐちゃに愛してやりたくて堪らなくなる。お互いの境目がわからなくなるまで、どろどろに溶けてしまえばいい。
可哀想だなァ、名前。こんな男に捕まっちまって。早く、早く俺のところまで落ちてこい。
敢えて口端にちゅ、と口付けて、それを何度か繰り返せば蕩けるような瞳をふるりと震わせる。けれど俺の言いつけを守って決して瞳を閉じようとしない名前が、健気で可哀想で、死ぬほど可愛い。

「んっ、…しな、ずがわ様…っ、これ、恥ずかし、です…っ」
「嫌ならやめる。…どうしたい?」

我ながら狡い聞き方だ。嫌がってなどいないことは、こいつの顔を見れば一目瞭然であるのに。けれど名前の口から聞きたくなってしまうのだ。俺をもっと求めろと、俺の中の独占欲の塊が叫ぶ。

「……っ嫌じゃ、ないです…、でも、あのっ、」
「うん」
「く、…くちに、ちゃんと……して、くださ……っん、んぅ…!」

顔を真っ赤にして強請られてしまえば、箍が外れたように抑えなんてものはなんの意味もなさなかった。言葉が言い切られない内にその唇をかぷりと噛み付くように覆った。潤む瞳をじぃっと見つめながら、ふにふにと柔らかな感触を味わう。反応からして口吸いすらはじめてだったことは、つい先刻それをした時にわかっていた。そして俺が、柄にもなくそれに浮かれまくっていたのも事実だ。なにも知らない初心で可愛い女を、自分の手で教え込んで育て上げていくのは男冥利に尽きるというものだし、正直滅茶苦茶そそられる。鼻で息をしろと教え込んだこともちゃんと覚えて健気に実行しているのだから、クッソ可愛くてもうどうしてやろうかという気分にすらなる。

「っふ、……ん、ん、」
「…は、……可愛いなァ、名前」

鼻から漏れる声に危うく下半身に熱が集まりそうになるが、そこは残った理性と精神力で無理矢理押さえ込んだ。
あー、クソ、ちょっとくらいなら舌入れてもいいか?いやさすがにまずいよなァ。怖がらせたくねぇしなァ。ゆっくり、ゆっくり時間をかけて、俺に触れられるのは気持ちいいことだと、そう覚えさせていけばいいのだ。
髪を撫ぜながら角度を変えて唇を挟むように啄んで、名前から溢れる色気やら少女のようなあどけなさに煽られ折れそうになる心をなんとか叱咤して、結局力が抜けるようにくたりと名前が眠りに落ちてしまうまで、幾度となく唇を合わせたのだった。

─紅梅色─

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