蒸栗色

「お袋が、鬼になった」

布団にくるまりながら、不死川様は左腕を枕にする形で竿縁天井を見上げてぽつりと言葉を吐いた。何の感情の色もなく、それは他人のことでも話しているかのような、どこかとても平坦な声だった。綺麗な横顔を見つめながら、私はその言葉を何度も繰り返し頭の中で反芻していた。

「七人兄弟だったが、生き残ったのは俺と五つ下の弟だけだった」
「そう、ですか…」

枕元には不死川様からいただいた簪が、有明行灯に照らされ鈍く輝いていた。不死川様の紫水昌のような髪も、灯りに照らされて蒸栗色のように見える。
どうして不死川様が突然このようなお話をされるのか、その理由はまったくわからないけれど、私はこれをちゃんと聞かなければならない。なんだかそんな気がして、ただ不死川様のお顔を眺めていた。

「無我夢中で鉈を振り回して、長屋から鬼と共に飛び出した。陽光が鬼を照らして灰になる様を見てはじめて、……その鬼がお袋だったと気付いた」

淡々と話す不死川様に、心臓を手で鷲掴みにされぎゅうぎゅうと圧迫されているような苦しみを覚える。不死川様が他人事のように淡々と平坦に話すのは、無情だからではない。底の見えない深く暗い絶望や、目の前で倒れていく家族を救えなかった無力さや自分自身への失望。そんな他人には想像もできないほどの、ぐちゃぐちゃになった強すぎる負の感情を、並大抵ではない精神力で押し殺しているからだ。
この傷だらけの美しい人は、そうやってひとりですべて抱え込んで、決して誰かに頼ることもせず、決して迷わず、たったひとりきりで闘ってきたのだ。

「お袋を殺したのは、俺だ」

空気を震わせたその声は波のように静かで、けれど嵐のように猛々しい心内が透けて見えるようだった。
私は今この瞬間に、不死川様になにができるだろう。辛かったですね。不死川様は悪くないですよ。……そんな言葉はきっと、不死川様は望んでいない。今でもこの方は、自分を責め続けているのだ。そんな方に、なにも知らない私が同情の言葉をかけたところで、それは気休めにすらならない。
なんだかたまらなくなって、不死川様の胸元に覆い被さるように顔を埋めて、傷だらけの身体を強く抱き締めた。

「名前…?」
「不死川様のようなお兄様がいて、弟さんも妹さんも、しあわせですね」
「しあわせ……?」

薄暗闇の中で、不死川様は目を丸くした。

「お母様も、きっと、いえ絶対にしあわせです」
「……もうとっくに死んでる人間が、しあわせだったはずがねぇだろォ…」
「死んだら不幸だなんて、そんなの生きている人間が勝手に決め付けているだけですよ」

不死川様はその言葉に押し黙って、なにかを考えているようだった。窓障子の隙間に浮かぶ、黎い雲に覆われて微かに形だけがわかる月を見つめていた。
天寿をまっとうできるのであればそれに越したことはないだろうとは思う。けれど、例え短命でこの世を去ろうとも、それが必ずしも不幸なことだったのかどうかは、他人には決められないと私は思うのだ。

「弟さんや妹さんは、不死川様をとても慕っていたのでは?」
「そうだなァ……。兄ちゃん兄ちゃんって、俺の後をよく着いて回ってたなァ」

かつての愛おしい家族の面影を思い浮かべるように、不死川様は目を細めた。とても綺麗で、目を離せば消えてしまいそうで、私は回した腕に力を込めた。

「私がもし不死川様の妹だったなら、大好きな兄が生きていてさえくれれば、しあわせです。それから、私には子供もいませんので親の気持ちというのは想像に過ぎないのですが…。もしも私が不死川様のお母様だったなら、止めてくれたのが不死川様で良かったと、それ以上愛してやまない子供たちに手をかけずにすんで良かったと、そう思ったに違いありません」

そしてやっぱり、最愛の不死川様やその弟さんが生きていてくれて良かったと、しあわせだと、思ったに違いないのだ。成長を傍で見守れないことは寂しいことかもしれないけれど、不幸だと嘆いて亡くなったとはどうしても思えなかった。私は不死川様のお母様を知らないけれども、自己犠牲的なまでに優しい不死川様のお母様なのだから、きっと間違っていないはずだと、そんな確信に似たものすらあった。

「ふ、…随分きっぱり言い切りやがるなァ」
「なにも知らないのに、生意気にすみません…」
「んなこと思ってねぇよ。それに………、いや、なんでもねェ」

なにか言いかけるように口を開いた不死川様は言葉を不自然に切って、それからかぶりを振った。広い胸板に埋めていた顔を上げて、不死川様の瞳を見つめる。右頬に走る大きな傷痕も、吊り上がった三白眼も、長い睫毛も、もう何度も顔を合わせているのにその度に愛おしさが増すのはどうしてだろう。ああ、私はこの方が、どうしようもなく愛おしい。

「不死川様」
「うん?」
「私も、しあわせです」
「……うん?」

目を細めて優しい眼差しで続きを促す不死川様にどきどきと胸の鼓動が早くなるのを感じながら、釣られるように微笑んで答えた。

「不死川様が生きていてくれて、しあわせです」

自分がふしあわせだと、思ったことなんてなかった。けれど不死川様に出会って、お顔を見るだけで心が暖かくなるような、声を聞くだけで心地よくなるような、優しく頭を撫ぜられるだけで心臓が壊れそうになるような、そんなしあわせがこの世にはあったのだとはじめて気付いた。
なんだかそう言いながらも、やっぱり私は堪らなくなってしまって、あまりにも感極まってしまって、目頭がツンとした。ぼやける視界の中で、不死川様が苦しそうに眉間を寄せるのが見えた気がした。

「、……名前、」
「はい…?」
「嫌なら殴るなり叫ぶなりしろォ…」
「え?」

低く呟かれた言葉に首を傾げるよりも早く、不死川様のおおきな手が後頭部に回されて引き寄せられる。整ったお顔がすぐ目の前に近づいて、それから、柔らかくて少しカサついた唇が重なった。

「っ、ん……?っ、?」

半分伏せられた不死川様の双眸が、窺うように私を見つめている。熱の篭った、見たこともない色だった。
私はと言えば、まったくこの状況が理解できていなかった。唇にあたる柔らかい感触だとか、かかる息だとか、これはなんなのだろうとぼーっと考える。唇と唇がくっつくこれは、ええと、たしか。あまりにも突然のことで頭の螺が飛んでいた私が、それが口吸いだと気付いたのは不死川様の唇がゆっくりと離れた頃だった。

「っえ……?」
「…嫌だったかァ?」

嫌かと聞かれて、咄嗟に頭に浮かんだ答えは否だった。そう、ちっとも嫌じゃなかったのだ。そう考えて、今更になって顔から火が吹き出そうなくらいに一気に熱が集まる。心臓が口からまろびでそうだ。不死川様の綺麗な形の唇が目に入って、思わず目を逸らした。ああ、どうしましょう。不死川様と口吸いをしてしまった。
でも、いきなり何故?不死川様がなにを考えていらっしゃるのか、まったくわからない。それなのに嫌ではなかった。むしろ私は、嬉しかったのではないだろうか。

「…悪ィ、どうかしてたわ。忘れろォ」
「っ、ちが…!」

答えられずひとり視線をうろうろと彷徨わせる私をどう取ったのか、不死川様は困ったように笑って私の身体を押し離そうとしたので、咄嗟にかぶりを振って離れまいとしがみつく。
それに戸惑ったように息を詰めたのは不死川様だった。

「違いますっ…!あの、びっくり、して…。嫌じゃなかったです。ちっとも嫌じゃなかった…」
「……無理すんな、震えてんじゃねぇかァ」
「は、恥ずかしいからです…。顔、見られたくないから…」

自分でも嫌というほどわかるのだ。目も当てられないほど、真っ赤になっている自分の顔が。だって仕方ないじゃないか、とひとり憤る。口吸いなんて、運悪く姐さまの夜伽の場面に出くわしてしまった時に見たことと、それから春画で見たことくらいしかないのだから。まさか自分が、それも不死川様とするとは思ってもいなかったのだから、仕方がないのだ。
おずおずと胸元から顔を上げて、恥ずかしさを堪えて不死川様と再び目を合わせる。やっぱりまだ熱が篭ったような瞳をしているものだから、どきどきと苦しいくらいに鼓動を速める胸を抑えながら、震える声を絞り出した。

「あの、不死川様……」
「…どうしたァ?」
「……もう一度、……その、……して、下さいませんか……?」
「っは、ァ……?」
「びっくりしすぎて…、ちゃんと、覚えて、なくて……。だめ、でしょうか……?」

不死川様は見たこともないほど目を丸くして、それから手で口元を覆った。
突き出し前の新造がなにを抜かしているんだと、はしたないと呆れられただろうか。けれど、思ってしまったのだ。もっとして欲しい、と。
嫌な沈黙が流れて、居心地の悪さに逃げ出したくなる。やっぱり呆れられてしまったのかと顔色を窺ってふと目に入ったのは、ほんのり赤く色付いている不死川様の耳。あら、と首を傾げば、不死川様はおおきな溜め息を吐き出して眉を顰めた。

「あのなァ……。あんま可愛いこと言うんじゃねェ…。手ェ出しといてなんだけどよォ、これも御法度なんじゃねぇのかァ?」
「御法度……かもしれませんが、…言わなければ、咎められません…よ……?」
「っ、ハァァ………」

今度こそお顔すべてを手で覆ってしまった不死川様に慌てたのも束の間、その手を外してすぐに腰を引き寄せられると、眼前に不死川様の端正なお顔が飛び込んでくる。

「っあ、…」
「名前、忘れんじゃねェ。おまえにこの先触れていいのは俺だけだ」
「え……っん、ぅ」

強い眼差しで言われたそれの意味を考えるより早く再び重なった唇に思考を奪われ、脳がどろりと溶けた気がした。二度目の口吸いは、砂糖のように甘かった。
角度を変えて合わせられる唇が、やがて同じ温度に変わっていく。くっついては離れる唇を追いかけながら、泣きたくなるほどしあわせだと頭の片隅で思う。
この人のこれまでの苦しみや悲しみを全部理解するなんて、無力な私には到底できないかもしれないけれど、これから降りかかるものから、少しでも不死川様を守れたらと、傍で分かち合えたらと、慈しむように髪を梳かれながらそう願わずにはいられなかった。

─蒸栗色─

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -