月白

遊女というものは、あまり頻繁に髪を洗えないものである。決められた湯浴みの日があって、その日になってようやく結った髪を下ろして洗えるのだ。江戸や明治の頃から比べれば湯殿も発達しているから、それよりは湯浴みの頻度も多くはなっているのだろうけれど、その度に一から髪を結うのが面倒だというのがいちばんの理由なのかもしれない。湯浴みをした日には、すぐに髪を結い上げる姐さんもいれば、特別な日として髪を結わずに座敷に上がる姐さんもいる。これが意外と主様方には好評で、なかなか見られない洗いざらしの髪を靡かせる姐さん目当てにいらっしゃる主様もいるくらいだ。
というわけで、今日はその待ちに待った湯浴みの日なのである。しかも朝一で窓障子を開けた際、不死川様の鴉さんが文を咥えて届けてくれたので、夜になれば不死川様ともお会いできるという、とてもとても良い日なのだ。
せっかくなので私も今日は髪を結わずに下ろしておこうかしら…。


***


結局髪を結わないことに決めた私は、禿に不死川様の到着を告げられるまで、化粧台と睨めっこを続けていた。
こうして髪を下ろしたまま座敷に上がるというのは実は初めてのことなので、妙にそわそわと落ち着かず何度も鏡を見てしまう。変じゃないかしら。やっぱりいつものように結ったほうがよかった?ああ、不死川様に変に思われたらどうしましょう。と、脳内はそれはそれは大騒ぎで。それからも座敷に上がるまで、ずうっと悩み続けた。
けれど、いざ不死川様の前に出てみれば、不死川様は大層驚いた様子で目をまあるくしたのだった。

「……おまえ、その髪、どうしたァ?」
「や、やっぱり変、ですか…?」
「ん…?いや……、」

それっきりなにも言わなくなってしまった不死川様におろおろとしたのは私のほうだった。なんだか思っていた反応と違いすぎるので、どうしたらいいのかわからない。言葉に詰まってしまうほど見苦しかっただろうか。

「あの、すみません…。今日は丁度湯浴みの日だったので、髪を結わずにいたのです。えっと…その、不死川様に……いつもと違う私を、見てもらいたくて…」

言い訳がましいかなとは思ったけれど、このおかしな空気に耐えられず正直に話せば、不死川様がぐっと息を詰める気配がした。それもすべて悪いほうに受け取って、失敗したなぁ、なんて気恥しさやら気まずさやらで俯いていると、次に不死川様はとんでもないことを口にしたのだった。

「悪ィ、あんまり違うから驚いただけだ。……下ろしてんのも可愛いなァ。好きだ」
「えっ!?な、なん、…え!?」

あまりにも優しく笑って、好きだなんて言うものだから、私は聞き間違いかと耳を疑ってしまった。
好きって…、え?好き?好きって、好き嫌いの、あの好き?え??
とまあ滅茶苦茶に混乱しまくって、顔から火が吹き出そうなほど真っ赤になってあわあわとしていれば、不死川様はとうとう吹き出した。

「っふは、いくらなんでも慌てすぎだろォ」
「だ、だって不死川様がす、すす好きだとか、仰るから…!」
「うん?髪下ろしてんの、俺は好きだけどなァ?」
「えっ、あ、あ〜…!」

穴があったら入りたいです、今すぐに。今なら土竜のようにもの凄い速さで地面に穴を掘れる気さえしています。
というか、だ。私はなんて恥ずかしい勘違いをしてしまったのだろうか。その、不死川様が、私を好きだと、そう仰るわけがないのに!自惚れにもほどがある。ぷしゅう、と湯気を出しながら小さくなっていれば、不死川様はくつくつと笑いながらいつかのように股座の間をぽんぽんと叩いた。

「名前。髪、弄ってやるよ」
「……え?」
「昔妹によくしてやったからなァ。ほら、来い」
「あ、はい…」

不死川様か突然どうしてそんなことを言い出すのかわからなかったけれど、なんだかとても優しく諭されるので大人しく頷いて、どきどきしながらそこへ腰を下ろした。
ついこの間初めて同衾させて頂いた時も、こうしてすっぽりと後ろから抱き竦められたなぁ、と思い出す。もしかして不死川様は、この体制がお好きなのだろうか。私としては、それはもうとってもどきどきするし緊張するしで落ち着かない。落ち着かないのだけれど、不死川様の温度が触れるのが嬉しくて、本当はこのまま離さないでほしい、なんて思ったりもして。

「相変わらず体温高ェなァ」
「…もしかして、湯たんぽ代わりにしてます?」
「ふ、ずっとこうしてるかァ」

髪をやってくれるという話はどこへいったのか、お腹に回された腕がぎゅうと強く私を抱き締めるから、お望みどおり湯たんぽになることにした。もう外の空気もかなり肌寒くなってきたから、不死川様が風邪でも引いてしまったら大変だし、と自分に言い聞かせながら。

「湯浴みの日ってのは、少ねぇのか?」
「五日から七日に一度くらいですね」
「へェ。名前、髪下ろすのは俺の前だけにしろォ」
「へ?」
「いいなァ?」
「え、あ、はい…?」

有無を言わさない様子の不死川様に頷いたはいいものの、理由がわからなくて頭の中は疑問でいっぱいになる。けれどこの話は終わりだと言わんばかりに髪に指を通し始めた不死川様の大きな手や優しい指遣いが心地よくて、そんなのはすぐにどうでも良くなってしまった。
思わずうとうととしてしまうくらいには、丁寧に手櫛で梳かれる感覚が気持ち良くて、夢見心地のまま口を開く。

「ん、不死川様の手、気持ちいいです…」
「……そうかィ。そりゃァ良かった」

ぴくりと一瞬手を止めた不死川様を不思議に思って振り向こうとしたけれど、動くんじゃねェ、と叱られたので慌てて正面に向き直る。
ご自身でよくやっていたと言うだけあって、その手つきはとても手慣れているし、今もなにやら複雑に編み込まれているような気がする。
不死川様は凄いなぁ。こんなこともできてしまうんだ。強くて、格好良くて、優しくて、手先も器用で。たまにいじわるな時もあるけれどそれも含めて、こんなに素敵な人がいて惹かれないわけがないと思ってしまう。
けれどふとした時に感じることがある。不死川様は、なにかとてもおおきなものを心の奥底に抱えているのではないかと。言うなればそれは危うさというか、自分を蔑ろにしているような、そんな風に感じる時があるのだ。
いつか私が、不死川様が抱えるものを軽くしてあげられたらいいのに。

「…こんなもんかァ?」
「あ、あれっ?」

考えごとをしているうちにいつの間にか不死川様の手は止まっていて、横の髪束がなくなっていることに気付く。不死川様の手は既に頭から離れているのに崩れ落ちてこない髪が不思議で、後頭部をさわさわと探ってみれば指先に当たったのは固い感触。

「んん…?」
「鏡で見てみりゃいいだろォ」
「はっ、そうでした!」

帯に差していた化粧直し用の手鏡を取り出して、角度を変えながら整えられた頭を見る。なるほど、横の髪を編み込んで後ろに纏めているらしい。しかもその精度といったらすごくて、均等かつ綺麗に編み込まれているのだからやっぱり不死川様は只者じゃないのではと感心する。でも肝心の後頭部は手鏡じゃ頑張っても見えなくて、うーんうーんと唸っていれば、不死川様は可笑しそうに笑って、左手で纏めている部分を押さえて、例の留め具になっていたものを右手で引き抜くと私に手渡した。
それは、天竺葵があしらわれた月白のような色の銀製簪だった。

「えっ……これ…!?」
「簪なんざ贈ったこともねぇから、気に入らねぇなら売るなりなんなりしろォ」
「不死川様、まさかこれ…私に、ですか…?」
「あァ?他に誰がいんだよ」

そんなぶっきらぼうな返事は、照れを含んでいるのかいつもより迫力がない。私はといえば、手のひらの上にある簪を見つめたまま固まる他なかった。だって、それは見るからに高そうな簪で、天竺葵の装飾部分もとても精巧に造られていて、一介の新造が手にしていいものではないことがわかるからだ。

「あ、あの、お気持ちは嬉しいのですが、こんな高級品受け取れません…!」
「だから要らねぇなら好きにしろって」
「要らないとかじゃなくてですね…!それに突然どうして、」
「おまえに似合うと思ったからやったんだよ。ただそれだけだァ」

不死川様はそれだけ言うと、私の手から簪をふんだくってまたそれを髪に差し込んだ。それから、やっぱりこれにして正解だったなァ、なんてどこか満足げに言うものだから、もうそれ以上なにも言えなくなってしまう。
そういえば、とふとこの間の大門通りでのやり取りを思い出す。初めて胡蝶様とお会いした時のことだ。

贈り物はご自身で選ぶからこそ、受け取った側は嬉しいものですよ。

確かに胡蝶様はそんなことを不死川様に言っていたのだ。では、もしかしてこの簪は。不死川様が私のために、私を思って選んでくれたのだろうか。店に入るのもあれだけ渋っていた不死川様が。そしてその光景は容易く想像できてしまった。きっと人目を気にしながら、女物の簪なんてまったくわからないからたくさん悩んで、それでも私のために苦労して選んで下さったのではないか。そんなことを考えてしまえば、途端に胸がぎゅうぎゅうと締め付けられて、なんだか苦しいほど切なくなってしまった。
この簪には不死川様のお気持ちが目一杯詰まっているのだ。受け取るには畏れ多い品であることは確かだが、そのお気持ちがただただ嬉しい。私と会っていない間にも、私のことを考えてくれたのが堪らなく嬉しい。

「っ、不死川様…ありがとうございます…。後生大事にします…っ」

人間嬉しさが溢れると、感極まって涙が出るらしい。私はそれを今はじめて知った。半べそで不死川様にお礼を申し上げると、不死川様はぎょっとして後ろから私の顔を覗き込んだ。

「なっ、はァ!?なに泣いてやがんだおまえはァ!」
「ぐす、…う、うれし、嬉しくて…」
「いくらなんでも簪ひとつで大袈裟すぎんだろォ…」

呆れたように眉を下げた不死川様に、でも、だって、と意味をもたない言葉だけがこぼれ落ちる。呆れながらもどこか嬉しそうに見えるのは、きっと気のせいじゃないだろう。

「……おまえはほんとに、可愛いなァ」

小さく呟かれた言葉が私の耳に届く前に、不死川様の端正なお顔が近付いて陰が差した。え、と思った時には、涙で濡れた目尻に柔らかなものが触れていた。それは、不死川様の形のいい薄い唇だった。ちゅ、ちゅ、と軽い音を立てて何度も繰り返され、唇が離れていく頃には私の涙はすっかり止まっていた。それから不死川様が愛おしいものでも見るような瞳で私を見つめるので、私は金縛りにあったように不死川様から目を逸らせなくなってしまったのだった。

─月白─

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