菖蒲色

「不死川様ー!」
「おー」

甘味処で茶を啜っていれば、菖蒲色の振袖を身に纏った名前が裾を掴んで駆けて来るのが見えた。通行人の男どもは、畦道に可憐な華が咲いたような名前の姿に視線を奪われている。見せてやるのが惜しいだとか、そんなことを咄嗟に思ってしまったが、そもそもこいつは大見世の遊女だ。そうやって目を引いてなんぼの仕事なのだと自分に言い聞かせ、少し腰を浮かせて名前が座れる分の場所を空けた。

「っはぁ、はぁ…!不死川様、お待たせしました…!」
「着物で走んじゃねェ。危ねぇだろうがァ」
「そ、そうですよね…すみません。鴉さんから文を届けてもらったら、不死川様が大門通りにいらっしゃっているとのことだったので、早くお会いしたくて、つい…」

蒸気し微かに赤がさした頬で、息を切らせながら上目でそんなことを言いやがるので、俺はぐっと息を呑んでかろうじて細い息を吐いた。
クソ可愛いなァてめぇは!同じ床に入ったこの間も、俺がどんだけ耐えたと思ってやがる。俺が日々精神力の鍛錬をしていなけりゃ、御法度だろうがなんだろうが、ひん剥いて滅茶苦茶に抱いてたわ!
そんな俺の葛藤もつゆ知らず、名前はきょとんと小首を傾げてじっとこちらを見つめている。

「不死川様?」
「ハァ……。能天気なもんだよなァ、おまえは」
「よく言われますが、そうなのでしょうか?」
「っふ、よく言われんならそうだろォ」

無自覚とは質が悪いものだ。けれどもそんな名前が可愛くて可愛くて仕方がないのだから、俺も相当狂わされているなと実感せざるを得ない。
時折、この感情にどう名前をつけたら良いのかわからなくなる。妹のようで放っておけない時もあれば、突然女の顔で擦り寄られると自分のものにしてしまいたい衝動に駆られる時もある。どちらにしてもこいつは恐らく無意識で、それこそ天性のものなんだろうから、名前という女が末恐ろしくすらなるのだ。
母を手にかけたあの日から、鬼を斬るためだけに生きてきた俺には、こんな感情は不必要で邪魔なものだったはずなのに。大事なのはあの救いようのねぇクソ馬鹿な弟だけで充分だったのに。今でもその考えは変わっちゃいねぇが、名前に会う度にそういった己の信念や理性が音を立てて徐々に崩れていくのだ。
名前は鬼狩りは凄いと、尊敬すると、全部ひっくるめて俺だと、そう強く真っ直ぐな眼差しで言った。その言葉に救われると同時に、あの時俺が考えていたことはひとつだった。
己の母を手にかけ殺したのは俺だと言えば、名前は俺から離れていくだろう、と。

「不死川様、お茶が…!」
「ん?……あー、」

慌てた名前の声と、ボタボタと水が落ちる音で手元を見れば、傾いた湯呑みから茶が零れ地面に黒い染みを作っていた。砂利道の砂に触れ、染みはじわじわと広がっていく。まるでほの暗い靄に侵食される自分の心うちのようだと思った。
気丈に明るく振る舞っている名前も、かつては鬼に肉親を殺されている。その時の記憶が朧げだとは言えど、仇が鬼であることをこいつはわかっている。茫然と父親の亡骸の前でしゃがみ込む少女の姿が脳裏に過ぎった。兄弟もおらず、可愛がってくれたという親を一晩のうちに失った名前に、俺はこの手で母を殺めたなど、言えるはずがなかった。

「火傷してませんか?」

俺の手から湯呑みを取り上げて盆の上に置いた名前が、柔らかく少し冷たい手で俺の手を包み込んだ。細い指が、傷跡が目立つ醜い俺の手をすりすりと撫でていく。

「あァ、なんともねぇよ」
「そうですか、良かったです。…大丈夫です、不死川様は大丈夫」

なにが大丈夫なのか、あまりにも脈略もなく言われた言葉に俺はただ目を丸くした。名前は儚く綺麗な顔で微笑んで、包み込んでいる手に力を込めた。
不安や自己嫌悪がたちまち小さく萎んでいく。本当におかしな女だ。なにも考えていないような顔をしているくせに、たまにこうして心でも読めるのかと疑うような言葉を吐くのだから。ここが道の往来でなければ、危うく抱き寄せているところだった。
クソ、好き勝手振り回しやがって。俺も簡単に絆されてんじゃねぇよ。いちいち可愛すぎんだよクソがァ!
暴論じみた思考に頭を抱えている俺の横で、名前はにっこりとそれはもう可愛らしく笑うのだから、本当にどうしてくれようかと、こいつは俺をどうする気だと、更に頭を抱えるのだった。


***


甘味処を出たあと、不死川様がついて来いと仰ったので後を追えば、着いた先は簪屋だった。きょとんと固まる私を見下ろして、不死川様は早く入れと言わんばかりに怖い顔をしている。

「えぇっと…どなたかへの贈り物、ですか…?」

簪なんてご自身で使うわけもないのだし、考えられるのは贈り物。そして贈るお相手は、確実に女性だ。不死川様のことだから、自分では選べなくて代わりに私を連れてきたのだろう。どなたに、なんて聞けるはずがなくて、もやもやとしながら不死川様を見上げれば、なんだか困ったような、それでいて怒っているような複雑な表情をしていた。

「……早く選べェ」
「え、あの、その方はどんな方なのか教えて下さいませんか?」
「はァ?」
「どんな方かわかれば、少しはお選びするお手伝いができるかと…」

簪といっても本当にもの凄い種類があるのだ。平打簪から花簪まで形もたくさんあるし、職人が手作業で作っているものだから装飾だって同じものはふたつとない。そんな中から選ぶのだから、少しでもその贈る方の特徴というか、好みが知りたいのである。
そんなことを言えば、不死川様は突然額に手を当てて深ーい溜め息を吐き出した。

「……てめぇ以外にやるかよ…」
「え?」
「てめぇのだっつってんだ!いいから早く選びやがれェ!」
「えっ!?わ、私に、ですか!?」

まさか、不死川様が私に簪を?
それはとても嬉しい。嬉しくないわけがない。けれど、そんなの受け取るわけにはいかない。だって先ほどの甘味処だって不死川様にお支払いさせてしまったし、ただでさえ廓に来て頂くだけでもの凄くお金を使わせてしまっているのだ。そんな中で簪まで頂くなんて、これ以上不死川様のご負担になりたくない。
躊躇っている私の背中をぐいぐい押して、不死川様は店中に私を押し込む。だめです、帰りましょう、と負けじと押し問答を続けていれば、背後からおっとりとした声がかけられて、私と不死川様はぴたりと止まった。

「あら、不死川さんではありませんか」
「胡蝶……」

振り返れば、不死川様と同じような隊服に身を包んだ小柄でとても綺麗な女性がそこに立っていた。蝶を模したような羽織が相まって、どこか儚げな雰囲気すらある方だった。
一方で不死川様のほうはそれはもう酷く眉を顰められて、見るからに嫌そうなしかめっ面をなさっているものだから、ぎょっとしてしまった。

「あら、あらあら。なんだか騒がしいと思えば、あの不死川さんが痴話喧嘩をなさっているとは、面白いこともあるものですねぇ」
「あァ!?痴話喧嘩なんざしてねぇわ。胡蝶、てめぇこそ吉原でなにしてやがる」
「通り道なんですよ。この先に行くところがあるので」

胡蝶様と呼ばれた女性はにっこりと微笑んで、通りの向こうを指さした。隊服を着ているということは、この方も鬼狩り様なのだろうか。私と背丈も変わらず身体の線も細いのに、と考えて、それは違うと思い直した。身体が小さくても細くても、きっとこの方は他の方に負けないくらいとてもお強い方だ。立ち居振る舞いや所作がそれを表していた。

「はじめまして、不死川さんの同僚の胡蝶しのぶといいます。不死川さんと仲良くして下さっているようで」
「ときと屋の新造の名前です。こちらこそ不死川様には大変良くして頂いていて…」
「まあ、ときと屋さんと言えばかなりの大見世じゃないですか。へぇ、不死川さんが、そうでしたかぁ」
「チッ……。用があんだろォ?こんなとこで油売ってねぇで早く行けェ!」

にこにこ、いや、これはにやにやとも言うべきか、そんな含みがある笑顔で胡蝶様は不死川様を見ていらっしゃって、それに居心地悪そうに頭を掻いた不死川様がぶっきらぼうに言い放った。お互いとても気を許しているのがわかって、なんだかそれが羨ましかった。

「ええ、邪魔をしてしまったようですからもう行きます。名前さん、不死川さんを宜しくお願いしますね。口はとっても悪いですが、悪人ではありませんから。今度は私とも是非、お茶でもしましょうね」
「あっ、はい、もちろんです!」
「ああ、それと不死川さん?贈り物はご自身で選ぶからこそ、受け取った側は嬉しいものですよ」
「っうるせェな、さっさと行けやァ!!」

こめかみに青筋を浮き立たせて不死川様が凄むけれど、胡蝶様は大して気にした様子もなくまたにこにこ笑ってその場を去っていった。ちらりと不死川様を見上げると、一瞬目が合った後にすぐに逸らされてしまう。

「ハァ…、興醒めした。もうじき夕刻だ、今日は帰るかァ」

どっと疲れが押し寄せてきたような顔で深い溜め息を吐いた不死川様に、そうですねと頷いて返す。やっぱり寂しさは感じてしまうけれど、日が暮れれば不死川様は鬼を狩りに行くのだ。我が儘を言って困らせるわけにはいかない。
口数が減ってしまった不死川様と並んで見世まで歩けば、帰り道はなんだかとても短くて一瞬のことのように見世に着いてしまった。

「また文を出す。じゃあなァ」
「はい。あ、不死川様」
「ん?」
「どうか、ご無理はなさらないで下さいね…」
「あァ、心配すんな。わかってらァ」

目を細めて笑って、大きな手が頭の上に乗せられる。ぽんぽん、と優しく何度か繰り返された後、不死川様は後ろ手にひらひらと手を振って、大門通りに消えていった。

その日の夜、私は不死川様ではない主様と、同衾した。

─菖蒲色─

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