短編 | ナノ




何故、自分でも其処へ行こうと思ったのかは知れないが、ある時ふと思い立って夜釣りへ行くことにした。それも、電車で片道二時間あまりの場所へ。私自身、釣りは得意ではないがその時ばかりは無性に釣りがしたくなり、物置の中から古い釣竿と魚籠を取り出し、思い立ったままに出掛けた。

目的の場所に着いたのは午後四時を少し過ぎた頃だった。時間がある。私は素泊まりできる場所を探し、その後で早い夕食を摂ることにした。
宿は案外早く見付かった。駅から十数分歩いた所にある寂れた宿で、中へ入ると老婦人が一人、台帳に何やら書き込んでいた。

「一泊したいのだが」

少し声を張って言えば、婦人は三寸ばかり飛び上がって「ご予約は」と目をきょろきょろさせながら言った。

「いや、すまない。予約もせずに訪ねてしまった。空室はあるだろうか」

驚かせてしまった罪悪感から、先程より少しばかり柔らかく発言する。婦人は幾分か落ち着いた様子で「へえ、幾つもありますよ」と笑った。

「しかしお客さま、ウチは朝夕の食事の用意も布団の上げ下げも致しませんよ。よろしいですか」
「うん。」
「それじゃあここんところに、住所と名前を御書き願えますか。ああ、あと、電話番号」

先ほど何か書き込んでいた台帳を私の前に出すと、老婦人はややあってにやりと笑った。

「嘘は書かないでくださいませね」
「ウソ?なぜ、私が」
「いや、昔、嘘を御書きになった方がおられてね。その後で色々あったもんだから」
「色々、とは気になる言い方をするな」

書き付けながら言えば、老婦人は何故かそわそわと辺りを見回した。どうかしたのか、そう尋ねるより早く、婦人は「秘密ですよ」と私に耳打ちした。

「この近くの海で昔、殺人事件がありましてね。」
「殺人事件?」

驚いた、そう顔に出ていたのか、老婦人は「嫌ですよお客さま」と言うと大袈裟に首をすくめた。

「新聞の一面に出てましたよ。そりゃあもうでかでかと。知らないんですか」
「知らない。それにここは静かな場所だと思っていたから、そんな」
「どこでだって人は死にますよォ」
「でも、殺人事件なのだろう。また別ではないか」
「人死になんだから、一緒なんですよ」

そういうものなのだろうか。私には分からない感覚だ。病死と事故と殺人というのは、人死にと言えば同じだが、全て別々だろうと思う。遺族の心境にしろ何にしろ、私には降りかかったことのない不幸なのでよくは分からないが、やはりそれぞれ違ったものだろうと思う。
しかし、私がいくらそう思ったところで、この噂好きそうな老婦人に説く意味など何もない。私はうんうんと首を縦に振りながら、婦人に先を促した。

「下手人は捕まったのか」
「いやあ、それがね、まだなんですよ。事件自体は単純らしい、けどどうにも犯人が分からないって話で」

単純な事件というのも可笑しな話だ。

「単純らしい、というと」
「男が女を刺しちゃった。あれはきっと、痴情の縺れですよ。浮気しただの何だの。昔から男女のいさかいはそれですよ、お客さま」
「そういうものなのか。」
「そういうものなのですよ」


書き終わったため、帳面を婦人に差し出す。
老婦人はしばらく私の記した箇所をうん、とか何とか唸りながら眺めた後で、お二階へどうぞと私を案内した。

荷物を置いた後、老婦人に「この辺りで旨い飯屋はあるか」と尋ねると、そりゃお客さま、この辺りは海近くだからみんな旨いですよ、と一頻り笑われた。そんなに可笑しいことなのか、私が首を傾げていると、婦人はあちらこちらと店の名前を上げた。

「ああ、そうだ。一等旨い店ってのが、ここから五分ほど歩いた場所にあるんですがね」
「値も張りそうだな」
「いんやあ、安価です」

私は、その店の名を尋ねてから宿を出た。


教えられた店は確かに美味だった。値段以上の品が出てきて、私はようやく旅情を得ることができた。気分がすこぶる良くなって、店員を捕まえて少し饒舌に店の味を褒めた。普段の私ならばそんなことはしないのに、やはり気分が高揚しているらしい。店員はにこにこと私の話を聞いていた。

店を出たのは十八時を過ぎた頃だった。久し振りにたらふく食べたような気がする。散歩ついでに夜釣りの場所を定めようと、海岸沿いを歩くことにした。

歩いていると、思っていた以上に釣りに勤しむ人を見掛けた。よく釣れるのだろうか、後ろからヒョイと篭の中を見たが、何故かどの篭の中にも魚は入っていなかった。

「釣れないのか」

何となく気になって、一人に話し掛けてみた。
相手は振り向きもせず、私の言葉に応えた。

「サッパリだ。長居するだけ損だな」
「それにしては釣り人が多いな」
「惰性だな、みぃんな粘り強いんだな」
「へえ。釣れないのなら、わざわざ来た意味がないな」
「いやあ、まあ、そうかね。」
「私も、参加しようと思ってたんだが、今日はおとなしく寝た方が賢そうだ」
「参加って、夜釣りか」
「そう。夜釣りをしに来た」
「悪い事は言わねえからさ、夜釣りだけは止めときな」
「ほう」
「この辺りにゃあ出るんだよ」
「出る?」
「ゆうれい」

幽霊、その言葉に私はなんだか可笑しくなってしまった。

「幽霊か、いや、恐ろしいな」
「笑い事じゃねえや。本当にな、出る。出るんだよ。夜釣りしてると、後ろから声をかけられる」
「なんて」
「『よう釣れますか』と」
「ん、その幽霊は女か」
「そう、女。その女の幽霊のな、問いに答えちゃならねえよ。」
「どうして」
「答えちゃ最後、その女を送っていかなきゃなんなくなる」
「送って?まさか、墓地までか」
「いやあ、違う。」
「じゃあ、何処へ」
「西さ」
「西?」

その時、一斉に目覚まし時計の音が鳴り響いた。
何事かと辺りを見回すと、釣り人が皆慌てて用具を直し始めていた。

「一体これは」
「悪い事は言わねえ。早く帰んなよ。宿なり何なりにさ」
「待て、西って」


私が全て言うより早く、人々は海に飛び込んでしまった。
呆気にとられていると、空に丸い月が昇った。つい先程まで、真っ赤な夕日があったというのに、これは。

私はどうして良いのかも分からず、その場にゆっくりと腰を下ろした。
幾分、或いは幾時間そうしていたろうか。突然、女に声をかけられた。

「もし」

振り返る。
私の後ろに解れ髪の、婀娜っぽい女が立っていた。

「夜釣りをなさっていたの」
「……いや」
「では」
「女を待っていた」
「まあ。では、私、お邪魔ね」
「どうだろうか。私が待っていたのは幽霊だ。女の幽霊。」
「信心深いのね」
「そうだろうか」
「だって、幽霊を待ってこんな時間に海を見ているなんて」
「物好きなのだろう、私は。」
「ええ、物好きな方」

女はくすくすと笑う。私は暫しの間、この不思議な女との会話を楽しんだ。普段の私ならば、そんなことはしないのに。

「不思議な夜だ。つい先程までは夕方だったのに」

私の言葉に、女は少し困ったような顔をして、帰らねばと呟いた。

「帰るのならば、送って行こうか」

珍しいことを言うものだ、と自分でも思う。女は神妙に頷いた後で、スッと指を差した。

「あちら」
「へ」
「送ってって、くれるのでしょう」
「勿論」
「なら、連れ立って頂戴よ。私のゆく所はあちら。西の果てが、私の求める場所」

女が私の手を握った。ゾッとするほどに冷たい手だ。
女を見る。
解れ髪の婀娜っぽい女。それでいて女は何故か昔に流行った花の柄の服を纏っている。

「ねえ、一緒にいって呉れる?」

女の言葉に、何故か私はそそくさと海に飛び込んだ。

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