逃げ水をつかまえた、と言っていた少女は幸せそうに彼方へ行ってしまったのに、目の前に座る男は随分と厳しい面持ちで僕を見ている。
彼岸へいった彼女は笑顔であったのに
此岸の京極堂は不機嫌そのものである
「なあ京極堂」
「なんだ」
「逃げ水とは何なのだろうか」
「夏にできる蜃気楼の一種だ」
「彼女は逃げ水をつかまえたと言っていた」
つかまえられないものなんだよ、京極堂は煙草に火を着けながら、今度はどこか寂しげに答える。
「蜃気楼だからかい?」
「そう、蜃気楼だからだ。実態はないんだよ、錯覚のようなものだ。あれは決して捕らえられない。」
「でも彼女は」
名前は言った、逃げ水をつかまえたと。
「……君はこの紫煙を掴むことができるかい」
「いいや」
「捕らえようとしても空気を掻くだけだろう。普通の、いわゆる水道水を掴もうにも、やっぱり正確には捕らえられない。掬ってもすぐに指の隙間から逃げてしまう」
「不可能だっていうのか?」
「僕がさっき挙げた、たしかに目の前にある存在ですら捕らえられないんだ。蜃気楼なら言わずもがな、だな」
「なら、なら京極堂、名前の捕まえたものは何だったんだ」
煙草の灰が落ちる。
京極堂は、ふっと顔を反らした。視線の先には、太陽の光を照り返して輝く水盆がある。
「正確な出典は覚えちゃいない、もしかしたら誰かの話しを小耳に挟んだだけなのかもしれない。」
京極堂にしてはイヤに歯切れの悪い言葉だ。
僕は黙って先を促した。
「逃げ水は捕まえられない、でももし何かの拍子に捕らえてしまったら、その逃げ水を捕らえた人は蜃気楼の中の世界へ行ってしまうらしい」
「蜃気楼の中の世界?」
「鳥山石燕の絵にある蜃気楼から着想を得た話しなんだろうがね。だから、きっと蜃気楼の世界というのも、その絵にある貝が見せる幻影の中のこと、だろうね」
「それって」
何だかひどく物悲しい、複雑な気持ちになった。
「名前は蜃気楼の住人になれたから、だからあんな幸せそうに」
京極堂は頭を振る。その仕草はまるで絡み付く何かを取り去ろうとする様に見えた。
「幸せだろうか。蜃気楼の住人は、いつか自分が貝の中に閉じ込められていると知る日が来るんじゃあないか。」
「そんなことはない、きっと幸せに蜃気楼の夢をみるんだ」
「関口、それはまやかしだ。幸せな蜃気楼の夢なんて、そんなもの」
見続けて何になる、そう言いたげに京極堂は口を動かしたが、何故か言葉にはしなかった。
「名前は幸せだろうか、逃げ水を捕らえられて」
僕には分からない。ただ、名前が見ている蜃気楼の夢に思いを馳せて、悲しくなってしまった。
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