(現代)
眠りと覚醒の狭間にある、心地の良い微睡みに身をたゆたわせていると、突然するりと雨音が耳へ入ってきた。奇妙なほど耳近く聞こえる。
微睡みの中聞く雨音は大へん甘美なもので、私はこの雨音を枕に、深い眠りの世界へと沈んで行った。
どれほど眠っていたろうか。現実的な携帯電話の着信音で私は目をさました。ディスプレイを見れば、毛利元就の字。名前を確認した後、時間を確かめれば明け方近くだった。
「もしもし」
少し億劫に思いながら電話に出る。いつもより低い私の寝起きの声に、毛利氏は低い声で、おはよう、と告げた。
「今朝はあいにくの雪」
「雪?」
「電車は、遅延となろう。」
「そんな、天気情報のためにこんな時間に起こしたのですか」
「いや、まさか」
まだ寝惚けている私に彼の声は雨音のように甘美だった。鼓膜を揺する声は、平素よりも幾分か低く、ゆっくりと噛み砕くようにして発する言葉もいつもとは違う。
私は電話を手にしながらも、夢を見ているような錯覚におそわれた。薄いクリーム色のベールに包まれているような、柔らかな錯覚。
「……名前?」
「んん、」
「寝ておるまいな。ちゃんと聞いておったか」
「うん」
「聞いておらぬな。良いか、我が迎えを遣ると行っている」
「迎えを?なぜ」
「雪だから」
電話の向こうで彼は微かに笑った。いや、笑ったように感じた。
「名前」
意味もなく、嬉しそうに彼が私の名を呟く。
「なあに」
なんだか幼児のように、心が素直になる。彼もそうなのか、低い声で私を呼ぶ。何がそうさせるのか分からないが、ぼんやりとその声を聞いていると、そんな些細なことはどうでも良いと思う。
「好い声ですね」
本心を呟けば、彼は少し黙ってから、また微かに笑った。
「実は、名前に電話をするまで、機嫌を損ねていた」
「どうして」
「昨夜からの雨のためよ。今日も雨だ、雪だと聞く。日輪が見えぬなど、その日一日、果たして意味などあろうか」
「なるほど、日輪信仰のためですね」
「そう、で機嫌が悪かった。それがどうだ、名前の声を聞くと妙に落ち着いたのだ。本当は、愚痴ってやろうかと思っていた」
「私に?明け方から」
「明け方から。愚痴って怒らせてやろうと思って電話した」
「いじわる」
「何とでも言うが良いわ」
電話の向こうで衣擦れが聞こえる。その生活音に何故か胸がきゅうっとなった。
「元就さん。」
と呼び掛けると、しばらく無言になる。
「……名前の声は好いな」
突然のことに二の句がつげない。ぱく、と空気を食べた。何か言わなければと思うが、唇がくすぐったく幽かに動くだけだ。ゆえに私は、じっと彼の言葉を待つしかない。
「我の機嫌を直したのも名前の声よ。その眠りと現実の狭間にいる声が良い、落ち着く」
「そ、そんな」
「ん?」
ああ、夢を見ているのだろう、私は。この人がこんなに人を愛でたことが他にあろうか。この声、この言葉。
「私、夢を見ているのでしょう」
つい口をついた言葉に、彼は静かに笑った。
「夢かも知れぬ。我も果たして自分が何を申したのか、思い返すことができぬ。寝惚けた頭は恐ろしい。あまりに素直に、心のことを全て口にしてしまうのだからな」
「元就さん」
「うん」
「元就さん。……」
瞬きをする。何故か甘い香りが鼻孔をかすめた。ただほんの一瞬だったが。
「お迎えは元就さんが来てくださるの?」
わざと子供っぽく尋ねると、彼は笑って答えた。
「名前がそう望むならそうしてやろう。雪道ゆえ、ゆっくり安全運転で参ろうぞ」
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