短編 | ナノ

(近代)
(父娘もの)

名前は父のことを愛していた。父娘の情愛ではなく、名前は父を一人の男として愛していたのだ。
名前は、また自分が若い時の母に似て美しいということを深く自覚していた。しかし父に似て聡明で思慮深い彼女は、それだけで父が母を棄て、自分のものになることはないと知っていたのだ。いかに女性らしい体を持ち、美しく賢明な相貌であっても父が名前を娘としか見ぬことは、名前が一番よく知っていることであった。
名前は時として、父が嫌がるような俗染みた言葉をわざと使うことがあった。その度に柔和な父の顔に翳りが差すのを、名前は楽しんでいたのだ。

「名前、若いからといってそんな汚ならしい言葉、使ってはいけないよ」
「あら、どうして。私の友達はみんな使ってらしてよ。」
「だからって、私はお前をそんな風に育てたかい。母さんのように美しい言葉を使うのを、推めたはずなのに」

母さんの、という言葉に名前は瞬間的に怒りが込み上げた。しかし、その心の動きを悟られないよう彼女は、柔らかくいかにも上品に微笑んだ。

「おとうさまはお上品な私が好きなのね」

普段朗らかな父は、少し眉を潜めて『この娘は何を言おうとしているのか』とこの思慮深い自分の娘をよく観察しようとした。

「あら嫌よ父様。怖い顔なさらないで」
「ああ、済まないね」
「私は、ただお父様に反抗するのを楽しんでいるだけですのよ。お父様が私の言葉にお顔を曇らせるのを楽しんでいるだけ」
「嫌だな。反抗期だね」

そう言うと真っ直ぐに自分の娘を見詰めた。
名前は美しい娘に育った。若い時分の妻以上ではないか、と父は思った。美しいが、冷たい美しさだった。犯しがたい、凛とした空気をもっている。時として彼は、この娘の美しさに恐れを抱くのだった。
――名前を一人の女として見てしまう。
このことは、彼を深い闇へ誘うように日に日に強くなるのだった。
名前が成長するほどに、父は娘に形容しがたい感情を抱いた。はじめは、確かに父性愛であった。娘と関わる男への感情は確かに嫉妬であったが、その心の動きは父親であれば皆はたらくはずであり、なにも彼――元就だけが特別ではないのだ。しかし、元就はその醜い嫉妬が娘を奪われるのではないか、という不安からくるものではなく、自分の女に手を出された、という不快感からくるものだといつしか諒解するようになっていた。
名前は父のそんな醜い感情を知らずに、その日男と交わした会話を嬉々として語るのだ。
いや、もしかしたらこの賢い娘は全て知っているのかもしれない。知っていて、私を嬲っているのかもしれない。元就はそう考えると、まるで情熱に溢れた青年のように、この娘の肩を抱き寄せあつく口吸いをしたくなった。しかし彼の思慮深さと、溢れ余る理性とがその欲望を抑えるのだ。

誰にも言えぬ悩みに、元就は煩悶した。
しかし彼は知らなかったのだ。まさか娘も同じ気持ちであろうとは!
煩悶する父に、名前は美しく冷たい瞳を複雑そうに歪めた。しかし彼女こそが、父の思い悩むに至った原因であるとは、いかに賢明な名前であれ知り得ぬことであった。

「父様、もし私が男の人とお付き合いをしていると聞いたら、どうなさいますか」

名前は美しく冷たい瞳を加虐的に細めた。

父は一瞬、妙に冷めた表情をしたが、すぐにまたいつもの柔和な表情に戻り、お前もいつかお嫁に行くからね、と答えた。

名前はその答に満足気に頷いた。そしてそのまま、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。

「お父様、私、いまお付き合いしている人が居てよの」
「それは、また、誰に」
「あらお父様に言ったって知りっこないもの」
「名前」

元就は焦った。自分の娘は気まぐれに男と付き合うような、身軽な娘ではないと知りながら、しかし名前が確実に女となって行くのを知らぬふりはできなかったのである。


「教えなさい」
「嫌よ。……お父様、怖い顔なさらないで」
「母さんは知っているの」
「……いいえ」

名前はしゅんと項垂れると、父の膝にそっと指先を乗せた。

「ごめんなさいお父様」

元就は膝に触れる名前の指先を、妙に意識しながら娘の言葉を待った。

「私お父様に嘘をついてしまった」
「どうして」
「私、お父様に心配してほしかったの」
「心配?」
「うん」

名前がついと瞳を上げた。涙で溢れそうな目に、元就は父性より先に、一人の男としての衝動に駆られた。

「おとうさま」
「……私は、名前をいつもおもっているよ」
「そう」

名前はうっとりと瞳を閉じた。溜まっていた涙が流れる。元就はその涙を人差し指で掬い、そっと舐めてみた。

「二人きりになれたら良いのに」

名前のそんな言葉を、聞こえぬふりをしながら、元就は自分の心臓がにわかに高くなるのを感じていた。

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