ほら、あの立派な池が見えるか?あの屋根が日の光をきらきらと反射させている城。あれ、ワシが生まれた城なんだよ。 ――ご立派なお城ですね。 うん。でも、やっぱり大坂城には敵わないんだよ。当たり前だけど。あれ? ――どうなさいました なあ、あれ。あの女性は誰だろうか。 ――女性? ほらあの、今庭へ下りてきた ――ああ、あの方はあなたのお母様であらせられます 母上?……そう、そうなのか ――何分、幼き頃に別れられましたから、きっと覚えてられないのです うん、朧にしか思い出せないよ。白粉の匂いとか、いつか見た小袖の柄とか。そんな些細なことは覚えているのに、母上の顏は思い出せないんだ。 ――だからあんなにも顔がぼやけておられる へえ、あら本当だ。あれでは誰だか分からない。 ――でもあの方があなたのお母様なのですよ ああ、きっと、そうなのだろうなあ。顔は分からないし着物の柄だって見えないのに、あれが母上だと奇妙に確信しているんだ。 ――あの方は真にお母様なのです お前がそう言うから信じているのかもな。しかし残念だ。少し、ほんの少し、母上にお逢いしたかった ――会いに行けばよろしかったのに うん?何て言おうかなあ、あの方は再婚なされていたから、とても会えなかったんだよ。そりゃあ会いに行きたかったけど、あのときのワシにはそんな余裕もなかったし。 ――寂しくはありませんでしたか 寂しくは……そうだな、なかったと言えば嘘になる。でも忠勝も居たし、今川殿や信長公との生活は慌ただしかったからあまり気にはしなかったよ。長じてからは尚更、忙しいだけの毎日でもあったし。でも ――でも? いや、なんでもないよ。 ああほら、庭に蝋梅が咲いているだろ。幼い頃からあの匂いが好きだったんだ。母上の部屋に置かれていたからなんだろうが、なんだかほっとしてしまう。 そう言えば、お前からも蝋梅の香りがするよ。 ――気のせいですよ。 そうなのか?まあ、そう思っておくよ。 ……ああ、見ろ舟がきた。存外はやく来るんだな。 さてと、ありがとう、随分と懐かしいものが見られたよ。それじゃあまた 「竹千代、」 「さようなら蝋梅の姫」 [prev|next] |