(現代) 幼い時分より私にはおいでおいでをする手だけの幽霊を見る。物心ついた頃からふと気が付くと手だけの幽霊が私を何処かに誘うのだ。 私が熱などを出して弱っているときなどは、いつもは幽かな手がはっきりと見える。指の先までも包帯を捲れた手が見えて私は幼いながら、きっと死神が迎えに来たのだと思っていた。 おいでおいでと手招きするのは、私をあの世へ誘うためと思っていたのだ。 しかし、十代も終わりまで無事に生き長らえているあたり死神では無いのかもしれない。そうは最近思うものの、やはり見えてしまうおいでおいでとする手だけの幽霊は恐ろしい。 そのことを大学に入学してからあったサークルの親睦会で肴として話したところ、思わぬ反響があった。 大学に入って初めての友人である市ちゃんが、いつものように困ったような顔をしながらたぶん、と私に聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いた。 「たぶん、沼地のちょうちょと名前は深い縁があるのよ」 思わず聞き返せば、市ちゃんは小首を傾げた。 「沼地のちょうちょって」 「澱んだ檻にいる人。ずうっと名前を待っているのよ、きっとそう」 何だか末恐ろしい話しに成りそうだったので、私は早々に彼女の恋愛の話にシフトを切り替えた。 それからしばらくして、同じサークルの先輩に会わせたい人が居ると言われた。 「会わせたい人?」 「会えば分かろう。いや、貴様は知らぬやもしれぬが」 「はあ」 全く話したことのない先輩からの言葉に恐々着いて行けば、大学院のある研究室まで連れて来られた。 「ここぞ。」 「はあ」 「開けぬか、もたもたするな」 「え、あっはい」 重い鉄の扉を開ければ一瞬蒸れた黴のにおいがして目を閉じた。 部屋の奥からきぃきぃという音が近付いて来ているのを感じて、慌てて挨拶をした。 「失礼します」 研究室内は雑然とおびただしい本に囲まれた薄暗い部屋だった。部屋の真ん中に通路を作るように大きな棚が置かれているため部屋の奥までは見えない。その奥から、きぃきぃという音がするのだ。 「あの先輩、」 ふと気になって振り返るといるはずの先輩が居なくなっていた。それどころかいつの間にかあの重い扉も閉まっていた。 「あ、あの」 不安になり思わず奥に向かって声をかけると、引きつった笑い声がした。 「帰りよったかあの男。いや気にしやるなあれはああいう男故にな。それよりも」 「はあ、あの」 「こちらへ参れ、そちらへは狭くて行けぬのよ。」 その声に、もう一度失礼しますと言いながら部屋の奥へと進んで行った。 奥にはもう一部屋あり、さっきの部屋とはうってかわって広々とした部屋で応接室のような設えだった。 部屋の入り口でキョロキョロと辺りを見回していると、突然死角から声がかけられた。 「そこのソファーに座っておれ。珈琲でも淹れる」 「あ、おかまいなく」 ソファーに座りぼうっと上の方を見た。そういえば今日は手の幽霊を見ていない。いつもなら気をぬいた時など視界の端に現れるのに。 不思議なこともあるものだなあと思っていると、入って来た部屋から車椅子に乗った人が現れた。 「あ、」 「われが呼んだのよ」 「はあ」 肌が一切見えない。細い手には白い手袋を着けており、その細い片手でティーカップが二つも入ったお盆を持っているので慌てて受け取りに行った。 「いやはや気をつかわせたか。スマヌなあ」 「いえいえ」 テーブルまで運び二つ並べる。 「感謝する。」 「どういたしました。あ、あの」 「如何した」 「私が何故呼ばれたのかお聞きしてもよろしいでしょうか」 落ち着いたのを確認してからそう言うとひょいと首を傾げたあと、目が三日月を描いた。 「ぬしは知らなんだか、さよか。いや、知っておればノコノコ来られまいか」 「あの、」 「これをな、」 するりと目の前の人が手袋を取った。その瞬間、私は思わず叫び声をあげてずるずると後退した。 「ほれ、こちらへ参れわれの可憐な姫子」 「ぎ、刑部さま」 幾年もしてやっと逃げおおせたはずの人の、あの見馴れた手が私を手招いた。 [prev|next] |