母は生まれつき心が弱かった。病気はナントカナントカ病という長い名だったが、当時の私は幼かったので、そんな漢字の羅列を覚えることは出来なかった。

とにかく、母が精神を患っていたお陰でうちの家族はあまり明るい家庭ではなかった。いきなりかん高い叫び声をあげて物を投げつけるなんてしょっちゅうで、そうかと思えばおいおいと何時間も泣き続ける。しかし、そんな母が私たちから疎まれていたかというと全くそんなことはなかった。むしろ、母は家族の中心だった。

父は母のことを溺愛していて、これ以上かというくらい沢山の愛を母に注いでいた。私と弟のことなんかそっちのけで四六時中、献身的に母の看病をしていた。だから、必然的に家事全般は私が全て行っていた。父は病弱な母を愛していた。だから母に付きっきりで看病することを少しも苦に思っていなかった。寧ろ至上の喜びとしていた。

私も父のことはともかく母のことは大好きだった。時々、ふと何かを思い出したように私たちを優しく抱き締めて子守歌を歌ってくれる母の愛が私の心に染み込んで、私もトーヤもそのときだけは幸せな気持ちで満たされていた。

私たち家族は明るい家庭ではなかったが、温かい家庭ではあった。

家族の転機は私が17のときに訪れた。母が死んだ。転落死だった。事故なのか、自殺なのか、はたまた殺されたのか、それすらも判らなかった。私たち家族は悲しみの渦で溺れた。

母が死んですぐ父は後を追った。正直、父が死んだことには余り心を動じなかった。母が死んだなら父は自殺するのだろう、と子どもながらに感じていたからだ。

世界には私とトーヤが残された。

当時17歳だった私は6つ下の弟を守ることに命をかけた。弟が私がもしいなくなっても1人で生きていけるように沢山のことを教えた。母に存分にかけてもらえなかった愛情を代わりになるように精一杯注いだ。

トーヤは賢い人間だった。私がしていた家事を1年でこなせるようになるり、私が持っていた知識を2年で覚えた。あれから5年経った今、トーヤは私より遥かに沢山の技術と知識を蓄え、大きな成長を遂げた。

今や、私にはトーヤが必要だが、トーヤには私が必要でなくなった。私のトーヤへの愛は必要ではなくなった。







「最近の姉さん、おかしいよ」

フォークにくるくると巻きつけたパスタがはらりと皿に落ちる。大好きなペペロンチーノを出迎えようとしていた口は半開きのまま停止した。

「どこがおかしいの?」

落ち着き払った口調で答えるも内心、ここ最近親離れの意味で弟離れをしようと決意し、それを今も頭の中で考えていただけにドキリとした。

「どこがって…今さっきだって、昼ご飯は姉さんが作るって言って聞かないし。普段は絶対にそんなことしなかったのに」

私は平然と自作の昼ご飯を口に運び、味わう。ペペロンチーノは大好物のはずなのに驚く程まずかった。私ってこんなに料理が下手だったのか。少しショックだった。

トーヤが食事の後片付けを始める。私は強引に自分にやらせてくれと頼んだ。トーヤは本当に大丈夫かと何度も私に訊ねた。私は絶対大丈夫だと念を押した。

「ああ、そんなふうに乱暴に扱ったら陶器が欠けてしまうよ。そっとね、そっと」

今まで何年もトーヤに全てを任せっきりだった私が急に家事を始めたことをトーヤは不思議がっていたが、しばらく続けるとそんな私の行動にも慣れたのかアドバイスをして協力してくれるようになった。正直、トーヤが居ないと砂糖と醤油が置いてある場所もわからなかったので、その助言はとても有り難いものだった。

「洗剤は小さじ2杯だよ。姉さん、小さじだってば。なんでわざわざ大さじのスプーンで入れるの?」

「アイロンするときは当てた状態で放置しないように気をつけてね。接している部分が焦げてしまうから」

「掃除機はそんなに早く動かしちゃ駄目だよ。ゆっくり、ゴミを吸い上げるように」

トーヤの助言は有り難いものだった…のだが。家事を完璧にこなすトーヤとしては、動きが鈍いくせにあらゆる失敗を連続させる私1人に任せておくことには耐えることが出来ないようだった。

結局、私がすると言いながらトーヤにも手伝ってもらっているので、時間も2倍、二度手間だった。そのたびにトーヤは大きな溜め息をつく。

弟依存から自立しようと私が頑張っていることは意味がない、寧ろマイナス方面に向かっているようにしか思えなかった。

家事を続けて1ヶ月が経った今、私は新たな決意を固めた。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -