空を眺めていると、小さな鰯雲の群れが後ろから泳いできた大きな鯨雲に飲み込まれた。
あれ、鯨雲?鰯雲は聞いたことあるけど鯨雲って…ん、今、命名!あれ、鯨のエサってオキアミだよね、鰯も食べるのかな?食べても不思議はない…?よし、トーヤに訊いてみよっと!
なんて考えていると後ろから私を呼ぶ声が聞こえた。急いで立ち上がって、走り出そうとしたけど靴に絡まった草に足元を捕られて派手に転んでしまった。勢いで掘り返した地面の土が舞い上がって、私はそれを思いっ切り被る形になる。
「わ!どうしたんだよ」
なかなか丘から下りてこない私を催促しようとやってきたトーヤが土に埋まった私を助け出す。
「泥だらけじゃないか、姉さん」
「ちょっと転んじゃって…」
トーヤは手際良く土を払って、呆れた声で溜め息をつく。なんだかとても申し訳なくて、トーヤに迷惑をかけている自分に嫌気に差した。「自分でするから」と言ってトーヤの手を払う。トーヤはかなり驚いた顔で私を見る。
「あ…、気を悪くした…?」
しまった。せっかく親切にしてくれたのに失礼なことをしてしまったかもしれない。ああ、私の馬鹿!
「いや、大丈夫だよ」
トーヤは笑った。そのいつも通りの笑顔にホッとする半分、何故かどこかがチクリと痛んだ。細い針に少しだけ突かれたような痛みだったが、確かにそれは私の心に傷をつけた。
「さあ、行こう。朝ご飯が冷めてしまう」
トーヤの作る料理は本当に美味しい。一口食べる度にトーヤの優しい心が私の中に広がって、なんだか無性に安心する。どんなこともトーヤの料理を食べているときの幸福感には勝らない。
「美味しい?」
「とっても」
少しずつ味わって食べたいのに、空腹感に負けてガツガツと頬張ってしまう。それでも、よく噛んで飲み込むように心掛ける。トーヤは何度も料理の味を私に訊ねた。私はそのたびに美味しいと応えた。
「そういえば、トーヤ。さっき訊こうと思ってたんだけど、鯨って鰯を食べるの?」
「鯨?一般的に鯨のエサはオキアミというプランクトンだと言われているけれど、実際小さな魚もたくさん食べているんだよ。だから鰯ももちろん捕食対象さ」
「ほほー、なる程。トーヤはなんでも知ってるね。流石、私の弟」
「あ。姉さん、唇にジャムがついてるよ」
くすりと含み笑いをしながら、私の唇に指を這わせてジャムを掬うトーヤ。その行動にドキっと心臓が高鳴ったのは恋心なんかではなく(トーヤは実の弟だ)、丘の上で感じたそれと同じだった。先端の尖った物で今度は先程よりも強い力で傷つけられる。この感情は、何?
「後片付けをするから、姉さんは休んでていいよ」
食事を終えて、トーヤは手慣れた手つきでテキパキとお皿をシンクに持って行って、テーブルを拭いて、料理に使った鍋を洗い始める。
私は慌てて手伝おうと、テーブルの上の残っている皿やコップを運んだ。洗い桶に倒さないように慎重に、慎重に…。そのとき丁度トーヤが次の食器を洗おうと伸ばした手が私のそれとぶつかって、積み上げた食器がぐらぐらと不安定に揺れる。あっと声を発する間もなく、色とりどりのそれらは床に向かって真っ逆様にダイブした。砕ける音は幾重にも重なってそれは決して美しいものではなかった。
「…もう、姉さんは休んでてって言ったのに」
溜め息混じりに割れた食器を集めるトーヤ。私…またトーヤに迷惑をかけてしまった。もう失敗しないって誓ったのに。
「ご、ごめんなさい。すぐに箒とちりとりを…」
裏の納屋に急いで向かおうとしたらトーヤに「いいよ、僕がするから」と呼び止められた。一瞬、その目がこれ以上仕事を増やすなと私に怒鳴っているように感じた。
トーヤはそんな風に思ったりしないのに、なんでこんな風に嫌な捉え方をしてしまうというの。どうして、素直に受け止めないのよ。トーヤはいつだって、私のことを気遣ってくれて…。
本当に、そう?
何処からか得体の知れない感情がもこもこと湧き上がって、それは大きな雲になって私の心を覆い、薄暗い影を落とした。
「? 姉さん、どうしたの?」
暗雲低迷。愛する弟の声も、届かなかった。