少年は焦燥感に苛まれていた。

今は元々嫌いな勉強の中で最も苦手とする数学の授業。いつもなら教科書を壁にノートに落書きをしてやり過ごすが、今日は運の悪いことに17日だった。

普段、授業を受けていないも同然の少年に応用問題など解けるはずもない。それでも少年は頭脳をフル活用して問題に取り組んだ。

しかし、数多の数字の羅列を解読することを脳は拒否する。また読み方のわからない記号が何を示しているのかそれさえもわからないことがパニックに追い討ちをかけた。

「出席番号17番!どこだ」
「あ…はい、こ、ここです!」
「前に出てきて、問題解いてみろ」
「……」

さて、どうするか。今から数学のできる辻本に泣きつき答えを見せてもらうか(これはプライドが邪魔をする)、素直に解らないと白状し恥ずかしめを受けるか(これもプライドが邪魔をする)、答えは二つに一つ。

助けを求めてチラリと辻本の方に視線を向ければ、案の定辻本は嫌味な薄ら笑いを浮かべてこちらを見ていた。俺と目線があうと、嬉しそうにニヤリと笑い、これ見よがしに教科書に視線を移しのうのうと問題を解き始める。あんのクソ悪魔めぇぇぇ…

少年の選択肢は一つしか残っていなかった。緊張状態が続く最中、そんな空気を掻き消すかのように終業を知らせる鐘が鳴り響く。

「もうこんな時間か。今やった問題は宿題にする。今日の授業はこれで終わる」

起立、気を付け、礼。挨拶もそこそこに少年は昼飯の入ったコンビニ袋片手に即座に教室を飛び出した。早く、早く、あの場所へ。

あっはっは!と心底馬鹿にしたような、いや、完全に馬鹿にした高笑いが屋上に響いた。

「あん時のお前の顔サイコーだったよ」

イカ素麺をすすりながら、コイツ俺を馬鹿にする時が最高に生き生きしてやがる、なんて嫌な奴なんだ、と心の中で悪態をついた。同時に、こんな嫌な奴と一緒に居てやっている俺はなんて寛大な心の持ち主なんだ、とも思った。

気分を害した賠償として辻本の綺麗に盛られた彩りの弁当からきんぴらと筑前煮を拝借した。ぽりぽり、さくさくと咀嚼する。相変わらず、コイツの料理は美味い。

「おい、コラ。何勝手に食ってんだ」
「いいじゃねぇか、ケチ」

辻本はすかさず俺の手から弁当を奪い取る。俺はぶーぶー言いながら、コンビニで買った298円のイカ素麺をすすった。やはり今の季節は素麺が旨い。

「あづい…」

少年の声は高く青い夏の空にソフトクリームのようにどろりと溶けて、打ち上げ花火のように儚く消えた。





蹂躙メランコリー





憂鬱だ、と少女は思った。狭い場所にいるわけでもないのにやけに閉塞感があり、自分を押しつぶそうと迫ってくる。気持ちがふさいで、晴れ晴れしない。『憂鬱だ』言葉にしたら何かが変わる気がして、口にしたら益々気が滅入った。

少女が気に病む原因はただ一つだった。少女に自我が生まれた時から抱える問題で、死して尚、解消されることはない。どうしようもないと割り切りたかったが、それは少女には困難なことだった。

少女は少女だった。自分にとっての幸せを乞い求めずにはいられない。諦めてしまったなら、自分は消えてしまうのではないかと心の底で恐怖していた。それ程に少女は幼く、知識と経験に不足し、浅はかだったのだ。

「…わっかんねーなぁ…」

夜半。少年は顔を上げ、かじりついていた机から立ち上がる。大きく伸びをして凝り固まった筋肉をほぐし、ボスンッとベッドにダイブした。しばらく停止した後、「明日、辻本に訊けばいいか」と誰に言うでもなく呟いて、目を閉じた。五分程して少年は寝息を立て始める。

少年が完全に眠りについた頃、少女はゆっくりと立ち上がった。少女は少年に対して悪態をつきながら、まだ違和感のある体を軽く動かして慣らした。

『こんの能無しが…』

少女は憎々しげに呟き、まだ覚束ない(おぼつかない)足取りでヨロヨロと部屋を出た。





いつも踏み潰されている。いつでも。物理的にも精神的にも。

少女は常に耐え難い断絶感を味わっていた。少年には存在していて、少女には既に存在し得ぬ肉体があるという一種の欠落感、一方が成長していく道筋で一方は確かに退化してゆく理不尽を、いったい何が正当化するというのか。幼き彼女の心はゆっくりと混沌の海に沈んでいった。

彼女と少年は元はひとつだった。彼らが分離したのは、また、彼女自身が自分という存在を認識したのは、少年が四歳のときだった。少年は幼稚園でのスイミング授業で不意に疑問を覚えた。

女の子はワンピースタイプ水着を身に付け、男の子はパンツタイプの水着を着用する。皆が楽しそうに水遊びをする中で少年はその事実に違和感を感じた。

"なんで僕の水着はこれなの?"
"だって君は男の子じゃない。普通、男の子はこの水着を着るんだよ。"
"なんで?なんでこれが普通なの?"
"そう決まってるからだよ"
"誰が決めたの?"
"誰が決めたとかじゃない、これが『普通』なんだよ"

腑に落ちなかった。心の中がモヤモヤと曇り、やがてそれは彼が成長するにつれて、どんどん肥大化し彼の心に大きな影を落とした。


僕は、『普通』じゃ、ない?


彼は『普通』ではない、他から疎外される部分を切り離した。それは自分を差別という脅威から護る為の彼なりの自己防衛だった。こうして彼女は生まれ、彼と一緒に育ってきた。彼女を生んだことで、彼は一切の異端である感情を棄てた。強制的に彼女の記憶を抹消した。彼女は彼を恨んだ。


何故、コイツは私を忘れて、『普通』に生活しているの?


憎い。憎い憎いニクイ。許せない。

肉体なくして精神保てず。彼女の精神は少しずつ、だが、確実に崩壊へと向かっていた。少年は未だ彼女の存在を認識することを自動的にロックしている。もしも彼女が完全に壊れたなら、もしも彼がロックを解いたなら、彼は、彼女は、どうなるのだろう?ふたつを続けるか、ひとつに戻るか、どちらかが死ぬか、はたまたゼロになるか。


これは彼らの物語。彼と彼女の誰も知らない秘密の物語。



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