こい【恋】
特定の異性を強く慕うこと。切なくなるほど好きになること。また,その気持ち。

異性、はそうだな。同性ではない。強く慕う…慕ってるのかな、多分慕ってはいるか、絵里子以外に話す人なんてあの人しかいない。切なくなる程…うん、今現在切ないな。あ、恋か?すなわちコレ、恋だね。初恋は気付いたら失恋でしたってどこの少女漫画?いや、別に良いんだよ恋人がいたって。あの人25だし、彼女くらいいるよ、普通に、うん。私だってそんな真剣に好きだったわけじゃないし、好きになりかけてるかも程度だったし。大体あの人に彼女がいなかったらどうなるわけでもないし。私は生徒で相手は教師だし。それ以前に私が好きになってもらえるわけないし。
「…結局、好きなんじゃん」
夕日が差し込む音楽準備室で無意識に一人で呟く。今日は部活がある日なので先生の補講(という名のお喋り)はない。しかし、部活に行くと必然的に顧問である先生と会ってしまう。なんだか、今は先生の顔を見たくなかった。
誰も居ない教室の先生の定位置のピアノの座椅子に腰掛けて、人差し指でキーを撫でる。ポーンと軽い音がした。
「…なんだかなぁ」
恋人についての相談をするくらい心を開いてくれていることにも素直に喜べない。悲しそうに嬉しそうに彼女のことを思い出す彼の優しい視線から彼女を想う気持ちが伝わってきて、尚一層面白くなかった。
私は彼にとって何でもない、何百人といる全校生徒の一人だというのに、一体何様のつもりなのだろう。彼との距離が近付いているなんて思い上がりも甚だしい。それは私にとってであって、彼からしてみれば何の変化も無いというのに。
頭でわかっていて尚、膨れ上がる利己的で醜悪な嫉妬心に呆れる。今はただ静かに自己嫌悪に陥っていたかった。
涙が一粒白い鍵盤に落ちた。指でキーを押すと、涙は傾いた斜面を転がり、消えた。ポーンと軽い音が鳴る。ついでに隣のキーに人差し指を動かした。二つの音が重なり合ってハーモニーを奏で、消えることを惜しむように細くなっていき、やがてどちらともなく命尽きた。静寂が訪れて、再び涙が零れた。







「逃げるんだ?」
熱いコーヒーをまるで日本茶のようにずずっと大きな音をたてて啜る絵里子は、興味なさ気に私が用意した履歴書を眺めている。
「逃げるも何も彼女がいるから、諦めるより」
仕方がない、と無意識に語尾は殆ど消え入りそうな小さな声になった。今は午後九時。平日の為か日中賑わう広い店内は閑散としていて、私達の他に二組しか客がいない。私は無言でレモンティーに砂糖を加えかき混ぜる。
「部活には行きたくないんだよね?」
黙認ととったのか絵里子は私の答えを待たずにそりゃあそうかと呟いて同時に溜め息をついた。
「じゃなきゃ、バイト紹介して欲しいなんて頼みに来ないよね」
化粧をして学校にいる時より大人っぽいファミレス店員の制服を着た絵里子に雇ってもらえるかと訊ねる。
「うちの店、今、人手が足りなくて大歓迎。でも接客業だよ?大丈夫?いーちゃん」
"大丈夫?"の言葉には人間恐怖症の私を心配する心と同時に仕事が満足に出来ないならば必要ないという意味合いも含まれていた。
「働かせて下さい」
私の言葉に絵里子は安心した表情で頷いて、店長を呼びに厨房へ消えて行った。例え逃げ場の確保として始めるバイトにしても中途半端な気持ちならまた後悔することになる。絵里子はその為に私の意思を確かめたのだ。私は彼女という掛け替えのない友人に感謝した。
店長は私の想像よりも若く気さくで綺麗な人だった。長い髪を綺麗に結い上げていかにも店員さんらしい。初めは頭から足先まで緊張していたが極度の人見知りの私にとって、他の人に比べると幾らか話しやすい人だとわかり、少し安堵した。二つ三つ言葉を交わしたなら、三日後から来て欲しいと言われて驚いた。
「私、合格なんですか?」
「貴女のように素敵な人を断る理由がないわ。よろしくね、厳原さん」
可愛らしい笑顔だった。しかしどこか歪な違和感のある笑顔に感じた。表面では"気さくなお姉さん"を装っているが根っからの善人ではないらしい。最もそれが普通なのだろう。少なくとも私はその例外を一人しか知らない。







常に気を配りその場の優先事項を考え機敏に動くことがこんなにも難しいとは全く知らなかった。それ以上に私にとって難問なのは接客中には常時笑顔でいなくてはならないことだ。普段の生活でも無表情が八割方占めている私が見知らぬ人に笑顔を向けられるはずがない。それが例え業務用スマイルであったとしてもだ。働いてみて身を持って痛感した。私は自分の笑顔度(どれだけ簡単に長時間笑顔を浮かべることができるかという度合い)を過大評価していたようだ。初勤務の次の日から私は厨房専門となった。
「お疲れ様です」
閉店後の片付けを手伝って粗方(あらかた)終わった頃に後は私達がするから上がっていいよと店長から言われたので、有り難く帰らせてもらうことにした。正直、慣れない環境と新しく知り合う人ばかりで精神的にひどく疲れを感じていた。
「厳原さん、明日は三十分早く入ってもらえない?人手が足りなくて。学校の都合もあるだろうから出来ればでいいんだけど」
三十分早く入るとなると部活には全く顔を出せないな…ってそのために始めたバイトだった。
「大丈夫です」
ありがとう、と相変わらず不自然な笑顔を浮かべる店長。どうにもこの人の笑顔は引っ掛かる。この笑顔どこかで見たことがあるような…。まあ、このような貼り付いた紛い物の笑顔をする人は腐る程いるか、と考え直した。しかし、彼女が長く束ねていた髪を解いた瞬間に一秒前までの考えは一変した。
私は、この人を知っていた。正確には見たことがあった。
「? どうかした、厳原さん」
髪を結っていたから気づかなかったのだ。彼女の笑顔は写真で見た想い人の恋人のそれだった。
彼を忘れる為にここに来たというのに、なる程神様という奴はよほど人を逆境に追いやることがお好きと見える。

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