「私、この家を出るわ」

夜、就寝する前にトーヤの部屋に行き、宣言した。トーヤは目を見開いてとても驚いた顔をした。どういう意図なのか、理由は何なのか、家を出てどうするつもりなのか。沢山の質問を私に浴びせようと口を開いたが、私の瞳を見て考え、沈黙した。再び開いた口からは全く異なる言葉がこぼれた。

「もう、決めたんだね」

私は黙って頷いた。トーヤもゆっくり頷いた。トーヤは私の決意を認めてくれた。自分勝手な独断を許してくれた。

私とトーヤは2人で生きてきた。お互いが常に共にいる対象だった。だからこそ、理解してくれないのではないかと恐れていた。誰よりも近くにいるからこそ、壁があるのではと疑っていた。しかし、そんな私の胸中は杞憂に過ぎなかったようだ。やはりトーヤは私の唯一無二の理解者だった。

「おやすみ、良い夢を」

「おやすみ、良い夢を」

私達が交わした言葉はそれだけだった。私達にはそれだけで充分だった。

翌朝、私はまだ日が昇らぬうちに生まれてからずっと育ってきた家を去った。少し白んできた空に未だ残る月だけが私を見送ってくれた。








いつだったか、トーヤにこんな質問をしたことがあった。

『淋しくない?』

トーヤは笑った。とても悲しい笑顔だった。なんであんな質問をしてしまったんだろう。トーヤの笑顔を見た瞬間、自分が弟を傷つけたことに気付いた。あのときの悲愴に満ちた笑顔は今でも忘れることができない。きっとこれからもずっと忘れることはない。



…ピ、ピピ、ピピピ、ピピピ

妙に耳に突き刺さる高い無機質な音源を探し求めて手を動かす。四角いそれの頭を思い切り叩いた。それは首を締められた鳥のように沈黙し、耳障りな音が消えたことで辺りに静寂が流れる。

今朝は久しぶりに弟の夢を見た。内容はよく覚えていないが、気分が良いから吉夢(きちむ)だったのだろう。まあ、弟が夢に出てきたならば私にとっては悪夢などに成り得ない。

ベッドから起き上がり、カーテンを開けた。窓から新鮮な朝の空気がさあっと流れ込んでくる。私は太陽に向かって深呼吸をした。丘の上からやってくる爽やかな風が私の髪を揺らす。時間を確認して、のんびりしている余裕がないことに気付く。昨日の夕食のシチューの残りを火にかけ、温めている間に服を着替える。洗面所に行く前にトースターに輪切りにしたフランスパンを突っ込んだ。

ピンポーン

玄関先からインターホンの音が響く。もう来たの?予想以上に早い彼の到着に、私は慌てて申し分程度に髪を整えて、片方の脚だけ履いていたパジャマを脱ぎ捨てた。勢いよく伸ばした脚でテーブルを蹴ってしまい、その衝撃で置いてあった花瓶が落下した。綺麗に整えてあった花がばらまかれる。彼にも花瓶が割れた音以上に大きな私の悲鳴が聞こえてしまったに違いない。

「朝から慌ただしいな」

第一声がそれだった。おはようくらい言ってくれてもいいのに、と心の中でむくれていると、彼はくるっと振り向いて私の背の高さに屈んで私の髪をかきあげおでこにキスをした。

「おはよう」

「…お、おはよう」

何故か照れて頬を紅潮させる私を彼はクスッと笑った。私は馬鹿にされたことに講義する。

「馬鹿にしたんじゃない。君があまりに可愛かったから」

そう言われると、私はおでこにキスされたときよりも真っ赤になっていく自分が恥ずかしくて彼に背を向けた。そして、朝の支度を続ける。彼は私に構わず、ソファーに座ってテレビを見始めた。なんだか、やるせない気持ちで私は割れた花瓶の後片付けをした。



『僕がするから、姉さんは休んでてよ』



トーヤの声がした。気がした。

「…っ!痛い…」

ぼーっとしていたせいか花瓶の破片で指先を切ってしまった。小さな傷から血が流れて、白い絨毯に赤いドット柄を作る。

「どうした?」

彼がやってきた。まず私の血がしたたる指を見て、汚れた絨毯を見て、もう一度視線を戻して、顔をしかめた。無言で新聞紙と雑巾を持ってきて、花瓶の破片とこぼれた水を片付けてくれる。ありがとう、という感謝の言葉は彼の「気をつけろよ」というトゲトゲしい言葉にかき消された。

「…ごめんなさい」

トーヤならきっと私の怪我の心配をしてくれただろう。傷口を消毒して優しく絆創膏を貼ってくれるだろう。彼といると、時々トーヤと比べてしまう。トーヤは弟で、彼は恋人だ。トーヤも彼も別の人間だ。だから、比べるなんてこと自体が間違っていることをわかっている。わかってはいるが、比べてしまう。

ねえ、トーヤ、私の選択は間違ってたのかな?

心の中の記憶の彼方にいる弟に問い掛けてみても返事はない。いつも私の質問に答えてくれる弟はただ静かに笑っていた。

『淋しくない?』

淋しくて淋しくて胸に穴が空きそうだった。私にはトーヤのように悲しい笑顔を浮かべることなんて出来なかった。





Fin.

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