もし客観的に、私を、私の生活を監視する者がいたとしたら、今の私はその人の目にきっと、きっと彼に叱咤を受けたから私がこうなっているのではないかと思うはずだ。ふと、そんな事を考えながら、さっき口にしたフィンガーフード類とアルコールを胃の中で消化して胃液と混ぜ合わせたものを便器の底へ吐き出す。汚物プラス、塩気のきいた涙で口の中は汚らわしい風味で溢れかえって私の存在を否定した。磨り硝子を一枚隔てているかのように、視界はぼやけて見えない。

「うっ、…っ」

胃が捩れる。再び言いようもない気持ち悪さがこみ上げてきて、私はただただ吐瀉物を撒き散らす。喉がヒリヒリとして何かが貼りついているかのような不快な違和感を覚える。そういえば、"吐く"という動作は食べた物を消化する働きのある胃液が食道や口内を逆流ことでそれらも一緒に溶かしていると聞いたことがある。なる程、私は自分で自分の体をこれ以上ない程痛みつけているってわけだ。微かに自嘲の笑みが漏れた。

胃液まで吐ききって空っぽになった胃はやっと私の体内を暴れまわることを止めてくれた。まだ若干残る吐き気と口の中に残留する苦味と頭痛に伴う眩暈にふらつきながら、やっとの思いで悪臭が漂うトイレから出た。そのまま真っ直ぐベッドに向かう。

初めての行為に対する不安感や既に後戻り出来ない状況になってしまった恐怖心、自分の予想を遥かに超えた己の興奮に対する戸惑いなどにより私の脳と体は大混乱し、拒絶反応として嘔吐してしまった。気を紛らわす為にアルコールを摂取したが、それが逆に悪影響になったようだ。普段ならすぐに酔いが回るのに、と自分が今までになく緊張していることに少なからず驚く。

「大丈夫?」

周りにビールや酎ハイの空き缶が無造作に捨て置かれたベッドに座ってテレビを見ていた彼は心配そうに私の顔を覗き込む。私はドスンとベッドにダイブした。

「お水、頂戴…」

ガラガラに嗄れた(しわがれた)醜い声で彼の顔も見ずに頼む私に対して、彼は嫌な素振りなんて見せることなく自分が一糸纏わぬ状態なのも気にせずにキッチンに消えて行った。数秒後、私の口元に冷たいグラスが寄せられる。

「飲めるかい?」

私は頷くと彼からグラスを受け取り一口一口慎重に飲む。傷だらけの喉に冷たい水が染みる。痛みを少しでも和らげる為にゆっくりと時間をかけて飲んだ。全て飲み終えた頃には幾分体の不快感が減り、とめどなく意味のない言葉が溢れて制御不能状態だった思考回路は沈静化した。私は彼にぐったりと体を預ける。彼は私の頭に騒音が響くことを防ぐ為、テレビのスイッチを切った。耳障りな笑い声や大きな音楽等の五月蝿かった雑音が消え、辺りに静寂が流れる。聞こえるのは自分の小さな呼吸音と規則正しくリズムを刻む彼の心臓が脈打つ音。どくん、どくん。どくん、どくん。

「どうしたんだ?」
「落ち着くんだ、この音を聞いてると」

様々な感情が入り乱れてぐちゃぐちゃに絡まっていた塊がスーっと一本の糸に解けていく感覚が私の全身を満たす。私は彼と向き合う形に座り直し、ぴったりと彼に肌を密着させ、中心軸より少し左側の心臓があるところに耳を当て、鼓動を味わうように目を閉じて集中する。彼はそんな私を見て大分顔色が良くなったみたいだ、と安堵する表情を私に向けて私の頭を優しく撫でた。

どくん、という体内に血液を送る音が大きく響く。遅すぎず速すぎず一定の速度で鼓動を打つ音が私に響く。ああ、生きている。彼は生きているのだ。私はそれによって生かされている。無性に生を実感し、彼の心臓が動いていることに安心する。

「ねえ、」
「ん?」
「続き、しよっか」
「…え、大丈夫かい?気分が優れないなら止めといた方が…」

なかなか寝付かない赤ん坊を眠りの世界にいざなうように私の背中をゆっくりさすっていた彼の手が止まる。耳を胸から離し、仰ぎ見ると彼は眉と口をへの字にして私を見ている。途中で止めたから彼だって辛いだろうに、自分のことは脇に置いて私の身体を慮る(おもんばかる)ばかりの彼が愛おしくてしょうがない。ああ、私、なんて愛されているのだろう。

大丈夫よ、大丈夫。もう回復したわと言いながら彼から握り拳5つ分くらい体を離し、彼の腹部に深く柄まで突き刺さっていた大型の手術用メスを勢いよく捻りながら、ゆっくりと抜いた。鮮やかな紅色のそれは真っ白なベッドを私を彼自身を染める。染める。染める。辺りに漂っていたアルコール臭を凌駕する程の鉄の臭いが広がる。深く刺した際に内臓も切り裂いたのかもしれない。思ったより出血量は多く、留まることを知らない。

「…痛い、よね」
「麻酔してるから大丈夫。痛さで気絶したら元も子もないからね」

彼はいつも通りの見る者を安心させる温かい笑顔で微笑む。私は少し安心して自らの身体で傷穴を塞ぐように肌をぴったりと合わせ心臓に耳を当てる。どくん、どくん。心音のスピードがやや緩くなる。どくん、ど、くん。心音のリズムが徐々に乱れ始める。

「あっ…」
「ん?」
「音、が」

小さくなっていく。少しずつ確実にその音量は萎んでいく。ど、くん、ど、くん。彼が私から遠のいているを本能的に感じた瞬間にせき止めていた感情が一気に溢れ出した。彼とは正反対に私の心臓は早鐘のように早いテンポで音を刻み、動悸の苦しさに襲われる。

「やだ、…やだ、」

置いて行かないで、遠くに行かないで、私の傍にいて、死んでしまう、私が死んでしまう、死にたくない、私はまだ死にたくない。

私の想いに反して彼は生気を失い、着実に死に導かれていく。私は気が動転し、どうすることも解らずに母親を捜す幼い迷子のように声を上げて泣きじゃくって彼にすがりつく。

「やだ、やだよぉ…」

彼は泣き虫な我が子をあやす母親のように優しく私の頭を撫でながら、私に僕の頼みを覚えているかいと問い掛けた。私の泣き声が止まる。



『僕の心臓を君に貰って欲しい。そうすることで君の中に永遠に僕を留めて欲しいんだ』



「…わかってる、心はいつも貴方と共に」

私と彼はお互いにお互いを依存し合わなければ生きてはいけない。互いが居ない世界を恐れ、互いと居ない自分を怖れ、独りという孤独を畏れる。

私は彼が頷いたことを確認してから、再び腹部に手術用メスを突き刺し、大きな傷穴から真上に向けて彼の肉体を一気にかっさばいた。ありがとう、という彼の声は命と共に消えた。同時に深い悲しみ故に静かに一人涙を流す。

私はこれからもずっと彼という唯一心から愛し合った人と鼓動を紡いでいくだろう。それは永遠に終わることのない、そしてこの世で最も美しく儚い人間の本質的な愛の行為なのだ。







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この作品は
途中まで書いて飽きちゃった
作品を交換して相手の作品を
完成させちゃおうぜ!企画の
羽柴ちゃんとのコラボ作品です。
羽柴ちゃん
ありがとうございました!


















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