底抜けに青い空には雲ひとつない。さんさんと照りつける太陽にじりじりと肌を焼かれる感覚。僕の首筋をぬるい汗が休みなく伝う。ミーンミーンという蝉の声がひどく耳障りだ。

「アップは五十メートルの八本を五十秒サークル」

「ピッ」というホイッスルの合図で、ざぶん、と水に沈み勢いよく壁を蹴る。伸びる。伸びる。耳元と水を切る音がごおおっと流れて、僕の全身が水に包まれる。

水は始め強固な岩のように僕の行き先を遮り、僕の存在を拒む。が、手足をリズミカルに動かすうちに、彼らはやがて僕の進む道を開けてくれる。

彼らはこちらが不必要に恐怖心を露わにすれば、時に冷酷な暗殺者となるが、こちらが礼儀正しく誠意を持って接すれば紳士な態度で接してくれるのだ。

水中では蝉の声も顧問の怒鳴り声もすぅっと遠くなる。世界が隔てられる。外の世界と僕と水だけの空間。

プール掃除をしたばかりでまだ新しい水は澄んでいて、僕の視覚は果てしなく広い。日光が射し込んでプール床に描く曲線で構成された抽象的模様がゆらゆらと揺れ、波打つ水面は時折光が反射してチカッと強く輝く。

ここは僕の土俵。ここだけが僕の居場所。泳いでいる時にだけ、僕は魚になることができる。


「お前さあ、調子に乗ってんじゃねえの」

いつものようにトレーニングを終えプールサイドから上がると、同期の田之上が僕の前に立ちはだかっていた。彼はギラギラと睨みをきかせ、憎しみのこもった目で僕を威圧している。

…またか、と僕は心の中で軽く溜息をついた。彼が言いたいことはおおよその見当がつくが一応訊ねておこう。

「何の話?」
「とぼけんなよ、さっきのタイム測定のことだよ。明らかに俺のほうがお前より速かったじゃねえか、なんでお前のがタイムが上なんだ?おかしいだろうが」

やはりそうか…測定者が姉さんだったからこうなる予感はしていたんだ。しかしこのいちゃもんに真っ向から対抗することは無意味。ここは不本意でも相手の流れに身を任せよう。

「お前のせいで俺が大会出られなくなったじゃねえか、どうしてくれんだよ。俺今年は良いタイムできてたのにさあ」

知ったことか、と僕は心の中で悪態をついた。

お前の方が遅かったというただそれだけの話だろう、姉さんがマネージャーだからとかそんなことは何の関係もない。敗者の言いがかりほど見苦しいものはない。まあ好きにいわせておけばそのうちに気が済むだろう。

僕は田之上の言うことを背中で聞き流しながらシャワーを浴びて更衣室に向かう。彼は律儀に僕の後に付ながらねちねちとストレートな嫌味をぶつける。

「お前弟だからって贔屓されてんじゃねえよ。むかつくんだよ、そういうの。あの人もレベルが低いぜ。弟だからってタイム細工したりすんだから。昔は速い選手だったらしいけど、今はただのマネージャーだからその程度ってことか」

負け犬の遠吠えだと腹をくくっていたが姉の悪口言われて聞き流すことはできなかった。

何も知らないくせに。姉さんがどれだけ努力し、どんな思いで水泳部に居るのか、何も知らないくせに知ったような口を利くな。

彼は悠然としていた僕の雰囲気が穏やかでないものに変化したことを感じ取ったのだろう。してやったりという挑発的な表情でこちらの顔を覗き込んでくる。

僕はぐるりと振り返り、気付くと右手で彼の顎をガッと乱暴に掴んでいた。反射的に左手は硬く拳を作る。

「な、なんだよ」
「謝れ」

まさか殴られるとは思っていなかったのだろう。田之上は顔に多少焦りを浮かべながらも「本当のことじゃねえか」とせせら笑った。

僕が拳をゆらりと振り上げた。その時、

「コラッ!」

鋭い牽制の声で僕の動きは止まった。声の主、見なくてもわかる。僕の姉だ。僕は顔を彼女の方に向ける(田之上は僕に顎を掴まれて首を動かせないので目だけを動かす)。

「田之上君を離しなさい」

目くじらを立てる姉に言われて僕はしぶしぶ彼を解放する。彼は慌てて僕から二三歩離れ忌々しそうに僕を睨む。同時に犯行現場を抑えられたことで得意気な顔をした。

姉は「この愚弟が!」と言いながら僕の頭に拳骨を落とす。思わずふらつくくらいに重い一撃だった。目の前がチカチカする。

田之上はますます嬉しそうにニヤニヤと笑う。姉はそんな彼の頭にも「喧嘩両成敗!」と言いながら僕と同じように拳骨を落とした。ガツンという大きな音が鳴る。油断していた彼は戸惑いの様子を隠せないようである。

「ほれ、もうここ閉めるから早く着替えてきなさい。喧嘩したら駄目だぞ、少年達!」

姉は不服そうな彼にも有無を言わさず僕と田之上をさっさとプールサイドから追いやった。


姉が六歳、僕が四歳の時に僕らは両親に水族館に連れられ、そこで姉は運命的な出会いをした。

「おさかなおよいでる!かっこいー!」

正確にはそれは魚類ではなくほ乳類のクジラだったのだが幼い彼女には泳いでいるものは皆“おさかな”だった。

帰宅してからも姉があまりにお魚かっこいいとはしゃぐので、それならお魚になってきなさい、と(今更なんと極端な考えかと思う)母は姉を(ついでに僕も)近くのスイミングスクールへ放り込んだ。

水を怖がって顔も浸けられない僕とは対照的に姉は初めからスイスイと達者に泳ぎ、徐々にその頭角を現していった。ポンポンと試験に合格してはどんどん進級し、ジュニア大会に出てはその都度優勝する姉が眩しくて、自慢だった。

姉はただただ泳ぐことが楽しくて、心の底から好きだった。そんな姉を一番近くで見れるために、僕はがむしゃらに特訓を積み一所懸命タイムを縮めた。

「わたしねえ、大きくなったらお魚になるんだあ」

よく、そんな冗談なのか本気なのかわからない将来の夢を、目をキラキラと輝かせて語っていた。子どもながらにお姉ちゃんが本当にお魚になったらどうしようと心配していたほどだ。

姉の泳ぎは滑らかで無駄がない美しさを持ち、まるで水が率先して彼女を運んでいるようだった。彼女はまさに水に愛された少女だった。

そんな彼女も神の愛娘ではなかったのだろう。高校一年生の時、彼女は水泳選手の生命線とも言うべき膝を故障する。過度のトレーニングが原因だった。

姉が泳げなくなったなんて信じない。信じられる筈がなかった。僕は姉からその事実を聞いて呆然と立ち尽くした。姉から泳ぎをとったら何が残るというのだ(実際彼女は水泳以外はてんで駄目だった)。思わずぼろぼろ涙を零す僕に対して当人は非常にあっけらかんとしていた。ニカッと笑いながら僕の髪をわしわしと掻き乱して言った。

「姉ちゃんの夢、お前が叶えてくれよ」

彼女のどこにも絶望感は感じられなかった。屈託がない。水が彼女を愛したように、彼女も水を愛していたのだ。


「ほれ、飲めよ。姉ちゃんの奢りだ」

田之上が帰った後湿度の高い更衣室を出た先で座っていた僕は、頬に当てられたひんやりとした瓶の冷たさにびくっと肩が跳ねた。

彼女はニカッと笑いながら手に持ったラムネを揺らして瓶の中に入ったビー玉をカラカラと鳴らす。そして無断で僕の隣にどっかり腰を下ろす。冷たい水滴が僕の左頬をぽたぽたと伝った。

プシュッと炭酸の弾ける音、ガコンとビー玉が落ちる音、ごくごくと喉を鳴らして液体を飲む音。

「ぷはぁ!うまいなあ、やっぱり暑い日はラムネに限るな」

実に気持ちの良い飲みっぷりだ。僕は田之上との一件で少しナーバスになっていたのだが、姉を見て急に喉の渇きが気になった。蓋を開けごくりと一口煽る。美味い。

「何が原因かは知らないが、同じ部員同士だ。仲良くしないと駄目だぞ!」

いや、あんたが原因だよ。そんなツッコミは彼女の笑顔を見て、炭酸と共にしゅわしゅわと飛んでいった。

夕方になりシャンシャンと騒がしかった蝉も今は声を落としている。夕焼け空は白んでその色彩を緩慢に赤から青へと変えていく。

アスファルトの昼間の熱気を含んだ風が僕らの頬をゆるりと撫で、姉の色素の抜けた茶色めの髪がふわりと揺れた。

プールに入っていない姉さんから、もう塩素の香りは漂わない。姉は気持ちよさそうに目を細める。

「姉さん」
「ん?」
「僕、魚になる夢は諦めるよ」

姉は一瞬目をぱちくりとさせ、「そうか」と優しく微笑んだ。




もう戻らないあの夏の日への青い回帰衝動はひたすら続く世界のために。魚影を追って夏空を泳ぐと、その果てにいたのは、半身はヒトで半身は魚類の人魚姫だった。クジラのいない路地裏にもう用はない。サイダーの海へ飛び込もう。

          (魚と君と暗号解読)

          

















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