![](//static.nanos.jp/upload/m/mistciel/mtr/0/0/20121201030315.gif)
『やったー!森から出られた!』
少年の喜ぶ声が隣から聞こえた。
妖精は、強く閉じていた瞼をそっと開けた。
優しい光だけが視界に馴染んだ。
つられて出てしまった先は―――幸いにして、大陽が沈んだ後の、夜の世界だった。
妖精はほっとする。
月の光なら、自分に害はない。
そして、森を無事に抜けて安堵している少年の横で、妖精は初めて見る外の世界に震えた。
新しい世界への恐れと…それを上回るあまりの広さに。感動するかのように、奮えたのだ。
『ね、僕の家まで来てよ。ちゃんとお礼、しなきゃ』
『でも…』
『あ、君も早く帰らなきゃ、お父さんたちが心配するかな?』
妖精は首を振った。
『…それは、大丈夫だけど…』
『じゃあ、おいでよ。おせわになった人にはちゃんとお礼をしなきゃダメだって、母さんにも言われてるんだ』
妖精は、少年に手を引かれて彼の住み処へと向かった。
繋いだ手のひらの熱は、妖精を溶かすどころかとても温かくて心地好くて…強く、握り返していた。
家に着いても、少年の両親は帰宅していなかった。
『ね。父さんたちが戻って来るまで、お話してようよ』
妖精は頷く。
そうして、二人は沢山の話をした。
楽しい話、悲しい話、自分のこと、森の湖のこと。少年の家族、友人、将来―――。
まるで昔からの友達のように、笑いながら。
…神様が願いを叶えてくれたんだと、思った。
寂しくて寂しくて、冷たい世界でうずくまるだけだった自分に、友達をくれた。
まるで夢のような、温かな心地だった。
そして月が、中天に差し掛かった頃―――。
麓からやって来たらしい人間が、館の扉を叩いた。少年は両親が今日は帰らないことを知る。
ならば、自分がここにいる理由はない。
窓から見える夜の深さに、妖精は終わりの時間を感じた。また薄暗く寂しいあの世界に一人戻るのかと、虚しい気持ちが拡がった。
…彼に、聞いてみようか。
また会える?…って。……それから―――。
妖精は俯いた。
いいや。まだ早い。
まだ…もっと仲良くなってから、聞けばいい。
だから今は、さよならしよう。
そろそろ帰らなきゃ…そう言葉にするのを遮るように、『ねぇ、』少年が口を開いた。
『朝までここにいてって言ったら…ダメかな』
そう、問い掛けてきた。
『父さんも母さんも、明日の朝まで帰ってこないんだって。だから…それまでここにいてよ』
妖精は戸惑った。
大陽の光は己の身を焦がす。
陽が上れば、この身は溶けてしまう。
…でも。
『僕たち、もう友達だよね。もっと遊びたい。………一緒に、いたいんだ』
その言葉が、妖精の胸に突き刺さった。
…もし、自分が彼の願いに首を振ったら。
彼は、嘆くだろうか。怒るだろうか。
失望するだろうか…。
そんな友達はいらないと、この手を振りほどかれてしまうかもしれない。
…それだけは、嫌だった。
だから、妖精は少年の懇願に頷いた。
『うん。ずっと一緒にいるよ。君の願いを叶えるよ』
…―――だからずっと、僕と友達でいて…
心の中でだけ呟かれ、消えていった言葉。
告げる勇気は、持てないまま。
その願いは…最後まで言葉にはならなかった。
…そして、妖精は少年と一緒に朝を迎えた。
朝、少年が眼を冷ました時、妖精の姿は消えていた。
……いや、溶けて消えてしまったのだ。
窓硝子から燦々と差し込む陽の光の下。
大きな水溜まりの上に、少年があげたマフラーだけを残して―――…
「君はその妖精を、どう思う?」
最後にキラは、霞んだ菫色の瞳を静かにレイへと向けた。
「みんな、悲しい話だって言うんだけどね…」
弱く微笑み、視線は再び空に戻った。
キラの横顔はただ、静かに星空を眺めるだけの答えのない存在だった。
語り終えてこちらに感想を求めてきたけれど、沈黙を貫いても構わないと語る穏やかな横顔。
レイは、浮かんだ心のままに、呟いた。
「妖精は、幸せだったんじゃないですか。自分の命が危うくなると分かっていても、外に足を踏み出して…」
ずっと望んでいた孤独を埋めてくれる存在に出会えて、自分を狭く寂しい世界から連れ出してくれて……その存在に必要とされ、最後まで望まれながら一生を終えられたのだから。
「…そうだね。…そうかもしれない」
やはり、キラは静謐なままだった。
薄く掃いた笑みと眼差しもまた、冬の湖のように凪いでいて、透き通るようだった。
レイは一度視線を落とし、瞬き一つした後、再びキラの目を見上げた。
「…遺された少年は、後悔したんでしょうか」
自身の望みのために、溶けて消えてしまった妖精を見て。
やりきれない想いを、少しでも抱いてくれたのだろうか。…それならまだ、救われるような気がした。何故そう思うのかは、分からないが。
「さぁ…どうだろう。これは妖精の話だから、その人間がその後どう思ってどう生きたかは、僕も知らない」
「………、……少しでも悲しんでくれたなら、救われたのだと思いたい」
「レイは、優しいね」
手の届くぎりぎりの指先が、レイの頭をそっと撫でた。
上げた視線の先で、数時間前に見たものと同じ微笑みが、自分に向けられていた。…不意に、童心にかえった心地がして泣きそうになった。
…―――何かが、肯定された気がした。
「僕は、『見てたんなら助けてやれよ!』って怒ったんだけどね」
手を引っ込めたキラは、そう言って少々不機嫌そうに瞼を落とした。
「『怒った』…?」
「うん。神様とやらにね」
でもまぁ、現実的に諌められて呆れられただけだったけど。不満そうに淡々と口にする。
「これがまた非道なんだよ…神様って奴はさ。それを例え直で見てたとしても、多分鼻で笑ったと思うよ」
「文句を…言ったんですか…」
「そしたら、説教のオンパレード。『それなら自分で動けばいい。己の生まれや孤独を嘆いている暇があったら、まずは幸福を探す行動を自ら起こしてから文句を言え!』って逆に怒鳴られた」
あの人たちも忙しいからさぁ。いちいち誰かの人生に干渉してる暇なんかないんだよ。
相変わらずキラは、『神』を身近な知り合いのように語る。
やがてパチリと目を開け、苦笑した。
「『求めるのなら、まずは語り合え。お前達には、交わし合い伝え合えるだけの言葉の理解があるのだから』ってさ」
正論だよね〜耳が痛いっての。
そんな皮肉も負けじとプラスする辺り、未だに納得出来ていないんだろうなと思えた。
「でも…そうですね。『神様』の言葉にも一理ある」
「なに?レイはそっちのみかたなの?」
「いえ…、どっちが正しいとかではなくて…」
心残りがあるとすれば。
「聞けば、良かったと思います」
「…?…何を?」
「陽がある時は、自分はここにいられない。その願いは半分しか叶えられない。それでも友達でいてくれるのかと」
もし、やり直せるなら。
「聞けるだけの勇気を、持てば良かった」
冬の星座は白く、蒼く。
人の想像だけで、砂時計のような形に繋がりを結ばれたオリオン座が遠く煌めく。
そうだね、というキラの吐息のような呟きが、澄んだ冬の大気に溶けて消えていった。
「…あのね。二人同じものを抱えているなら、こんな日ぐらいは一緒にいればいいんじゃないかと思う」
キラの目が、ソファーで寝息をたてているシンに向き、それからすぐにレイへと戻る。
「君らは火と水だけど、似ているところもあるだろ?…似た羽色をしてるんだから、たまにはそれを共有すればいいんだよ」
「…よく…分かりません」
人間である自分達には見えなくて、天使であるこの人には見えている何かがあるのだろうか。
キラはそれ以上、何も言わなかった。
→
...227341...