『やったー!森から出られた!』


少年の喜ぶ声が隣から聞こえた。

妖精は、強く閉じていた瞼をそっと開けた。
優しい光だけが視界に馴染んだ。

つられて出てしまった先は―――幸いにして、大陽が沈んだ後の、夜の世界だった。

妖精はほっとする。
月の光なら、自分に害はない。

そして、森を無事に抜けて安堵している少年の横で、妖精は初めて見る外の世界に震えた。
新しい世界への恐れと…それを上回るあまりの広さに。感動するかのように、奮えたのだ。


『ね、僕の家まで来てよ。ちゃんとお礼、しなきゃ』
『でも…』
『あ、君も早く帰らなきゃ、お父さんたちが心配するかな?』

妖精は首を振った。

『…それは、大丈夫だけど…』
『じゃあ、おいでよ。おせわになった人にはちゃんとお礼をしなきゃダメだって、母さんにも言われてるんだ』

妖精は、少年に手を引かれて彼の住み処へと向かった。

繋いだ手のひらの熱は、妖精を溶かすどころかとても温かくて心地好くて…強く、握り返していた。



家に着いても、少年の両親は帰宅していなかった。

『ね。父さんたちが戻って来るまで、お話してようよ』

妖精は頷く。
そうして、二人は沢山の話をした。

楽しい話、悲しい話、自分のこと、森の湖のこと。少年の家族、友人、将来―――。

まるで昔からの友達のように、笑いながら。


…神様が願いを叶えてくれたんだと、思った。


寂しくて寂しくて、冷たい世界でうずくまるだけだった自分に、友達をくれた。
まるで夢のような、温かな心地だった。


そして月が、中天に差し掛かった頃―――。


麓からやって来たらしい人間が、館の扉を叩いた。少年は両親が今日は帰らないことを知る。

ならば、自分がここにいる理由はない。
窓から見える夜の深さに、妖精は終わりの時間を感じた。また薄暗く寂しいあの世界に一人戻るのかと、虚しい気持ちが拡がった。

…彼に、聞いてみようか。

また会える?…って。……それから―――。

妖精は俯いた。

いいや。まだ早い。
まだ…もっと仲良くなってから、聞けばいい。
だから今は、さよならしよう。

そろそろ帰らなきゃ…そう言葉にするのを遮るように、『ねぇ、』少年が口を開いた。


『朝までここにいてって言ったら…ダメかな』


そう、問い掛けてきた。

『父さんも母さんも、明日の朝まで帰ってこないんだって。だから…それまでここにいてよ』

妖精は戸惑った。
大陽の光は己の身を焦がす。
陽が上れば、この身は溶けてしまう。

…でも。


『僕たち、もう友達だよね。もっと遊びたい。………一緒に、いたいんだ』


その言葉が、妖精の胸に突き刺さった。


…もし、自分が彼の願いに首を振ったら。

彼は、嘆くだろうか。怒るだろうか。
失望するだろうか…。
そんな友達はいらないと、この手を振りほどかれてしまうかもしれない。

…それだけは、嫌だった。


だから、妖精は少年の懇願に頷いた。


『うん。ずっと一緒にいるよ。君の願いを叶えるよ』


…―――だからずっと、僕と友達でいて…


心の中でだけ呟かれ、消えていった言葉。
告げる勇気は、持てないまま。

その願いは…最後まで言葉にはならなかった。


…そして、妖精は少年と一緒に朝を迎えた。





朝、少年が眼を冷ました時、妖精の姿は消えていた。


……いや、溶けて消えてしまったのだ。


窓硝子から燦々と差し込む陽の光の下。




大きな水溜まりの上に、少年があげたマフラーだけを残して―――…












「君はその妖精を、どう思う?」

最後にキラは、霞んだ菫色の瞳を静かにレイへと向けた。

「みんな、悲しい話だって言うんだけどね…」

弱く微笑み、視線は再び空に戻った。

キラの横顔はただ、静かに星空を眺めるだけの答えのない存在だった。
語り終えてこちらに感想を求めてきたけれど、沈黙を貫いても構わないと語る穏やかな横顔。

レイは、浮かんだ心のままに、呟いた。

「妖精は、幸せだったんじゃないですか。自分の命が危うくなると分かっていても、外に足を踏み出して…」

ずっと望んでいた孤独を埋めてくれる存在に出会えて、自分を狭く寂しい世界から連れ出してくれて……その存在に必要とされ、最後まで望まれながら一生を終えられたのだから。

「…そうだね。…そうかもしれない」

やはり、キラは静謐なままだった。
薄く掃いた笑みと眼差しもまた、冬の湖のように凪いでいて、透き通るようだった。

レイは一度視線を落とし、瞬き一つした後、再びキラの目を見上げた。

「…遺された少年は、後悔したんでしょうか」

自身の望みのために、溶けて消えてしまった妖精を見て。

やりきれない想いを、少しでも抱いてくれたのだろうか。…それならまだ、救われるような気がした。何故そう思うのかは、分からないが。

「さぁ…どうだろう。これは妖精の話だから、その人間がその後どう思ってどう生きたかは、僕も知らない」
「………、……少しでも悲しんでくれたなら、救われたのだと思いたい」
「レイは、優しいね」

手の届くぎりぎりの指先が、レイの頭をそっと撫でた。

上げた視線の先で、数時間前に見たものと同じ微笑みが、自分に向けられていた。…不意に、童心にかえった心地がして泣きそうになった。

…―――何かが、肯定された気がした。


「僕は、『見てたんなら助けてやれよ!』って怒ったんだけどね」

手を引っ込めたキラは、そう言って少々不機嫌そうに瞼を落とした。

「『怒った』…?」
「うん。神様とやらにね」

でもまぁ、現実的に諌められて呆れられただけだったけど。不満そうに淡々と口にする。

「これがまた非道なんだよ…神様って奴はさ。それを例え直で見てたとしても、多分鼻で笑ったと思うよ」
「文句を…言ったんですか…」
「そしたら、説教のオンパレード。『それなら自分で動けばいい。己の生まれや孤独を嘆いている暇があったら、まずは幸福を探す行動を自ら起こしてから文句を言え!』って逆に怒鳴られた」

あの人たちも忙しいからさぁ。いちいち誰かの人生に干渉してる暇なんかないんだよ。
相変わらずキラは、『神』を身近な知り合いのように語る。

やがてパチリと目を開け、苦笑した。

「『求めるのなら、まずは語り合え。お前達には、交わし合い伝え合えるだけの言葉の理解があるのだから』ってさ」

正論だよね〜耳が痛いっての。
そんな皮肉も負けじとプラスする辺り、未だに納得出来ていないんだろうなと思えた。

「でも…そうですね。『神様』の言葉にも一理ある」
「なに?レイはそっちのみかたなの?」
「いえ…、どっちが正しいとかではなくて…」

心残りがあるとすれば。

「聞けば、良かったと思います」
「…?…何を?」
「陽がある時は、自分はここにいられない。その願いは半分しか叶えられない。それでも友達でいてくれるのかと」

もし、やり直せるなら。


「聞けるだけの勇気を、持てば良かった」


冬の星座は白く、蒼く。
人の想像だけで、砂時計のような形に繋がりを結ばれたオリオン座が遠く煌めく。

そうだね、というキラの吐息のような呟きが、澄んだ冬の大気に溶けて消えていった。


「…あのね。二人同じものを抱えているなら、こんな日ぐらいは一緒にいればいいんじゃないかと思う」

キラの目が、ソファーで寝息をたてているシンに向き、それからすぐにレイへと戻る。

「君らは火と水だけど、似ているところもあるだろ?…似た羽色をしてるんだから、たまにはそれを共有すればいいんだよ」
「…よく…分かりません」

人間である自分達には見えなくて、天使であるこの人には見えている何かがあるのだろうか。

キラはそれ以上、何も言わなかった。





 






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