::: 逃水陽炎 :::






カーテンレースによって抑えられた陽射しが柔らかく抜けて、執務と来客用を兼ねた部屋の中の穏やかな調度品達を光らせている。

空調の効いた室内でパソコンを手繰っていた議長その人は、太陽が天頂を少し過ぎた頃に、一つ休憩の溜め息をついた。


背もたれに重さを乗せれば、微かに椅子が軋んだ。窓の向こうには、緑の葉が連なる。

暑さの厳しい地球の夏ゆえに、開けることも出来ない装飾窓の内側。
屋敷を包むように植えられている木々が、優しいグリーンカーテンの役目もしているが、暑さはまだまだ真っ盛りの日々だ。



官邸の中央をぐるりと囲む回廊の更に真ん中。
その、設えられた中庭。

屋敷の上階から見下ろす敷石の引かれたその地面からは、ゆらりと夏の蜃気楼が揺れている。


廊下を抜け、休息用のプライベートルームに向かうさなか、水を弾く音が聞こえた。

庭師の誰かと思って覗いた先にいた見慣れた姿に、驚く。

緩く白いシャツを着崩し、ズボンも捲り上げ、足も裸足で芝生の上に立っている。
伸ばした腕の先には水を撒くシャワーホース。

小さな花壇に。刈り揃えられた垣根に。
彼は、拡散させた水を降り注いでいた。

こちらに振り返り、

「あ、お疲れ様です。…お邪魔してますよ」

片手にホースを離さないままそう呟いた。
自宅でくつろぐような軽やかな服装、まるでここが我が家のような気安さだ。

彼は少しだけ蛇口を捻り、水音を小さくした。

「どうしてここに?休暇中じゃなかったか?」
「議長宛の親書が一つ、渡し漏れていたみたいで。こっちに用事があったので、僕がついでに持ってきたんです」
「そうか。すぐに呼んでくれれば良かったのに」

急ぎではありませんでしたから、とキラは軽く首を振った。

「待たせて貰ってました。……まぁ、暇をもて余してはいたので」

これ。庭の水撒きを手伝ってたんです。

彩色豊かな花の色はここには少なく、どちらかと言えば濃い深緑が光に眩しく輝いている。
シンプルで、それでも強く季節を反映している新緑の庭。

「ここには専属の庭師さんもいるみたいですけどね。お願いして、やらせて貰ってました」

これでも、ラクスの庭の世話とかも手伝ってるんですよ。

じりじりと肌を焼く陽射しの中でも、表情は楽しげだ。飛沫が時折風に流されて、顔や、指先や、全身にまで涼を運んでくる。

「すみません。ここだけ終わらせたら向かいますので」
「構わないよ。全部終わってからでいい」

そうですか?と呟いて、キラはホースを引っ張った。

粒子となった水滴は、緑から敷石へと飛散する場所を変える。黒く濡れた陰を落とす。

「地面にも撒くのか?」
「少しは温度が下がるかと思って」

恵みの水とは違うけれど、なかなか降らない雨の代わりに、地の熱を下げるため。
焼け石に水のような光景だが、何故か陽射しが柔らかくなった気がした。

ふと見詰めた、道を造る為のアスファルト。

熱く揺れている透明な影の揺らぎ。
あるはずの無い場所に見える陽炎。
あるいは逃げ水。

そこに、キラが撒いた水が散る。

蜃気楼が、打ち水によって消えていく。


「……なんなら、やってみますか?」

遠く夏の景色を辿っていたら、キラがホースの持ち手を差し出してきた。

「立ってるだけだと暑くないですか。水を撒いてるだけでも、大分涼しいですし」

気分転換にでも。

「久しぶり過ぎて、使い方が定かじゃないが」
「ただ押せばいいだけですよ。切り替えはしなくていいので…」

キラからホースの持ち手を受け取った瞬間だった。

「あ!そこは外すための…!!」

誤って触れてしまった場所。キラの叫びは、勢いよく飛び散った水の飛沫に掻き消された。

残されたのは、髪や服から滴り落ちる雫と、

「………」
「………あーあ…」

キラの、呆れたようなぼやきだけ。

「そこを押すと、シャワーヘッドが外れるんです。…今更だけど」
「そうだな…先に言ってくれれば助かった」
「………なんか、間抜けですね」

暑さでボケました?
手で口元を覆って、キラは笑いを耐えている。

「…そうかもな。少し、身体と頭がなまりすぎているようだ」

自分に呆れた笑いをして、濡れた黒髪を掻き上げた。表面にしっとりと水分を含んだシャツの裾も、捲り上げる。

横では、キラが未だに口元を押さえている。
笑いを堪えようとしている辺りは、まだ上司としての敬意が残っているからなのだろう。ひとまず、深く息をして笑いを飲み込んでいた。

「とりあえず、着替えに戻らないと」
「この陽射しだ。どうせすぐに乾くさ」
「ダメですってば。そんな格好でいたら、何かあった時にすぐ動けないじゃないですか」
「構わない。本来なら今は休暇中だ。余程の知らせじゃない限り、ここには誰も来ない」

だからこそ、政務に関わる親書をキラがわざわざ持ってきたのだろう。

火急の要件ではないものの、時間を置くには迷う案件。判断に迷うから、キラ・ヤマトに預けたと言ったところか。

ついで、どころか、図らずも側近として彼が認められてしまっているが故の、押し付けられた『お役目』だ。…彼にとっては、不本意かもしれないが。

お見通しであることに何とも言えない空気を纏うキラの心中は、複雑そうなその表情に全て現れているようで、笑ってしまった。

「…そうですか。……ならどうぞ、びしょ濡れのままそこに突っ立ってて下さい」

ツンと視線を逸らして、彼は水撒きを再開した。涼やかな水の音に、雫が散った。


濡れた黒い髪に、風を感じる。
水と緑の匂いを纏う、清涼な風。

陽炎の庭の中。

打ち水で消えていく蜃気楼。幻の景色。
大地に命を与える恵みの水滴は、そうして暑い残像を消し去っていく。

残された緑の葉は、生命の讃歌を太陽に謳う。


四季の中で、唯一休暇というものを与えられる季節の最後。
それは、世間では『夏休み』などという随分と幼く可愛らしい言葉になるのだろうか。

新緑の眩しさ。
水の匂い。
太陽に交ざり、陽炎が浮かぶアスファルト。


何処か懐かしい日々を懐古させる風景に、過ぎていく夏の一日を思った。





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