―――――…―――、―――…


―――…―――、―…ピン!



旋律がスローになったと思ったら、音が何とも間抜けな外し方をして途切れた。

同時に、

「…あー…やっぱり難しい…」

落ち込んだような呟きがピアノの向こう側から聞こえてきた。


しとしとと雨が降る窓の外を見るともなしに見ていたレイは、振り返る。

考え込むように眉を寄せているその人へと歩み寄った。

「難しいですか?」
「んー…、楽譜は頭に入ってるんだけど、指が回らないんだよね…」

ここ、と楽譜の一節を指差して困り顔をする。
ああ。確かにここは。

「少し複雑かもしれません」
「んー」

手本を見せると、食い入るように指を凝視して、ふんふんとしきりに頷く。
それからまた鍵盤に向き直り、練習を始めた。





弾き方を教えて欲しいんだ、とレイの元にやって来たキラが持っていたのは、よく童話などで唄われる曲の楽譜だった。

沢山の子供の遊び相手になっているその人は、保父宜しく面倒見が大変良いらしく、いつも子供達の輪に囲まれていた。
今回も、その無邪気な我儘に応えようとしている為の努力なのだろう。

雨続きの多い最近の天候のせいか、あまり外では遊べない。そんな、子供達の為に。


…が、予想外と言うべきか。
キラはピアノの演奏に四苦八苦する羽目になっていた。

それは別に普通レベルの上達速度なのだろうが…なんというか…、少し、意外だった。

「貴方でも苦手なことがあるんですね」
「ん?どういうこと?…僕にも苦手なことなんて山ほどあるよ」
「こういう指先を動かすようなことは、全て得意なイメージがありました」
「どんなイメージだよ、それ…もう」

少しだけ不貞腐れたように口を尖らせる。
不本意だったようだ。

「僕、そんなに器用に見える?」
「あのプログラミングのさばき方を見てたら、そう見えますが」

キラは、何とも言えない顔をした。

「キーを叩くのが早いからって、手先が器用ってなるの、おかしくない?」
「そうですか?」
「情報処理と技巧系は別物だよ…」

アスランといること多いから、誤解されるんだよね…と溜め息を付いている。

「細かい作業は嫌いじゃないんだけど、言われるほど得意ではないし…。……ピアノ弾くのも難しいし」

唸るキラに、レイは口元を緩めた。

万能人間ではないと分かりつつも、こうして歳相応の態度を見られるのは何だか安心出来る。
教えられることがあるというのは嬉しかった。


「んー…こんなものかな…」

立ち上がって、キラは大きく伸びをした。

肩強張っちゃったなー、なんて呟いて、

「ちょっと休憩〜…」

ふらふらと窓に歩み寄り、へた…と窓枠にへばりついた。引き寄せた椅子に座り込み、組んだ腕に頭を乗せたまま動かなくなる。

暫くはそのままだろうと思い、レイは他の用事を済ませてこようと声を掛ける。

「ちょっと外します」
「はーい」

少しだけ振り返って手を降るキラを置いて部屋を出た。





戻ってきても、キラの姿は変わらずに窓にあった。
むしろその体勢に落ち着いてしまって、深い呼吸に合わせるように軽く肩が上下している。

見れば鍵盤の蓋は開いたまま、楽譜も同じページで止まっている。

一つ息を付き、レイはピアノの蓋を下ろした。

「…ん…」

微かな音に気付いてキラが声を洩らした。
緩慢に顔を上げて辺りを確認している様に、やはりうたた寝をしていたかと分かった。

「あれ…」
「眠ってました?」
「あー…うん…、ごめん…」

眠気を覚ますように、キラは瞬きを繰り返す。

「何かこの音聞いてたら眠くなって来てさ…」
「音?」
「うん。雨が降ってる音」

窓の外は未だ雨。
今日一日どころか、きっと数日は降り続く。

「ここにいると、よく聞こえるんだ」

こっちにおいでと手で招かれて、歩み寄る。
横に立って、水滴が流れる窓の向こうを見た。


ピアノの音が無くなり静かになった部屋には、二人分の人の気配だけ。
それを包むように雨の音が遠くに聞こえる。

微睡むような、雨の午後。


「…止まないね…」

ふわぁとあくびをこぼし、キラはまた同じ体勢になって腕にうずくまる。
目を閉じた姿は、そのまま眠りに落ちたようにも、微かな音に耳をすませているようにも見えた。

それに倣い、レイも目を伏せて雨音を聴いた。


サー…と霧を生むような細い音。
硝子に弾かれた水滴が跳ねる音。
屋根から規則正しく滴り落ちる音。

世界が、水の声に満たされる。


ふ、と意識を浮上させ目を開けた。

すると、いつの間にか目を開けていたその人がこちらを見ているのに気付いて驚いた。
横顔を見られていたことにもだが、何より心臓を跳ねさせたのは、その表情だった。


…優しく微笑う薄紫の瞳。


「雨の音、聴こえた?」

窓辺に寄り掛かる姿は変わらないままなのに、表情だけが愛しげに微笑んでいた。


「雨も、立派な楽器だね…」


ピアノのような色付いた音ではないけれど。
無彩色の…あるいはくすんだセピア色の風景を見詰めて、ただ。

「…そうですね」

その人が見ようとしているいつかの風景が重なり、優しい時間となって降りてくる。


うとうとと、お気に入りの場所で丸くなる猫のように、キラはもう一つの奏曲を聞きながら眼を閉じた。

そうしてレイも、その姿に寄り添った。



穏やかに流れる雨の箱庭の中で、ただ二人、優しい音を聴く。





世界を優しい微睡みに包む、雨の午後。












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