* primula veris *
『あーあ…すぐに散っちゃうね』
足元に散らばる花びらの終わりを見て、残念な溜め息を付く。子供心に綺麗なものが無くなってしまうのは寂しくて、悲しい。
『桜も温室の花みたいにずっと咲いてればいいのに』
『そうだよね』
『ねー』
親友と一緒になって、季節の終わりに頬を膨らませる。
『でもこんなに大きな花だったら、温室には入らないんじゃない?』
『あー、…うーん。それもそっか…』
無理かぁ。何でなくなっちゃうんだろう。
ずっとそのままでいてくれればいいのに。
『じゃあ僕がいつか、キラにも持てるぐらいの桜の花をプレゼントするよ』
『ホント?』
『うん』
『ぜったい!ぜったいだよ!』
『うん。約束』
『やくそく!』
『キラも、忘れないでね』
『もちろん。ぜったい忘れないよ』
……わすれないよ―――…
…何だろう。懐かしい夢を見た気がする。
窓の隙間から差し込む朝日に、キラはベッドから身体を起こした。
カーテンを開ければ、淡い色の陽射しが庭を染め始めたところだった。
毎朝、新しく広がる景色。
事実、新しかった。
初めて見る風景がいつもそこにある。
毎日―――見たことのない風景の中、僕は目を覚ます。
それを感じて、心が冷えて重くなる。
指先に力がこもり、ふっと冷たくなっていく。
ああ、僕はまた、何かを忘れてしまったのだ。
何を忘れたのかすら、分からないけど―――…
それに気付いたきっかけは、いつだったか。
ある日。
キラは、一緒に働いている人の名前を、思い出せなくなっている自分に気付いた。
顔には見覚えがある。作業班の誰かだという記憶もある。しかし名前が思い出せない。
滅多に会わない人ならまだしも、一ヶ月に数回は会う人間のことを、思い出すことが出来なかった。
じわりと胸に過る不安。
やがてそれは、人の名前に留まらず……過去や経験と云った記憶に関するものまでに広がり始めた。
欠落していく記憶。
侵食されていく何か。
決定的だったのは、目の前で親しみを込めて自分の名前を呼ぶ人達が一体誰なのか、分からなくなった瞬間。
初対面ではない。分かってる。
でも、思い出せない。分からない。知らない。
相手の名前を呼ぶことも出来ず…、……ただ。
「ごめんなさい…」
それが、いつの間にか僕の口癖になった。
ごめんなさい。
僕には分からない。貴方の名前も、顔も、一緒にいただろう思い出も。
ごめんなさい。
貴方がどうしてそんな悲しそうな顔をするのかも、寂しそうに笑うのかも、分からないんだ。
緩やかなカウントダウン。
姿の見えない逆回りの時計。
失われていくことが、怖いと思った。
近いものも遠いものも関係ない。
いつかはゼロになる自分の中身。
支えであったものもやがては消えて、ぽつんと自分だけが取り残された、時計の針すら霧散していった世界。
けれどももう、今では。
それすらも―――…、
「おはようございます。キラ」
窓際から振り返れば、目の前には優しい髪色をした女性が立っていた。
「…え…っと…」
戸惑ったように言葉に詰まれば、寂しそうな笑みにぶつかる。自分の胸も、少し痛む。
「ラクス・クラインですわ」
「あ…、…そう、………おはよう、ラクス」
いつか恐怖した感情ですら、何が…何故怖かったのかすら、もう覚えていない―――。
キラは、一日の大半を自宅で過ごすことが多くなった。
むしろ、外にはほとんど出ずに、得意とされたプログラムの仕事に一日明け暮れていた。
記憶は無くても、指先はそれを覚えているようだったから、まだ仕事場からも見捨てられずに済んでいる。
生活に必要な常識や情報はあるのに、そこに染み付く記憶や思い出と言った…感情を含むものの姿だけが浮かばない。
…いや、自分の中には何もない。
まるで初めて会ったモノ……人であるように。
記憶は無くなっていっても、感情までは消えていかないから、そんな周りの悲しそうな表情を見ているのは、辛かった。
だから、成るべく人には会わぬよう、顔を合わせて傷付けないよう閉じ籠もる日々。
「…なんか…」
虚しい毎日だ。
誰かと会って、笑うことも出来ない。
自分も。相手も。
何だか集中できない。静か過ぎて。
誰もいない部屋で一人呟き、頭を振る。
溜め息を付く。
最近は、そのパソコン作業すら疲れ易くなって来たように思う。
「……ねむい…」
そう、眠気に襲われる日も、多くなって来た気がする。……今までが分からないから、あくまでも気がする、だけだけど。
ぼんやりと、霞むように微睡むように、眠ってしまう日が増えてきた。…―――まるで逃避。
ソファに横になり、手の甲で目を覆ってただひたすら時間が過ぎるのを待つ。
自分にとっては、その時間すら惜しいものの筈だけれど…。
どれだけ時間が経った頃か、カチカチと時計の針が刻む音に紛れて、何かコツコツと叩く音があることに気付いた。
「…?」
起き上がって周りを見渡してみたら、
「窓…?」
音は、そこからのようだった。
なんだろう。風だろうか。
締め切ったままの窓から、今も規則正しく音が聞こえてくる。
立ち上がって窓を開けてみたら、
『…―――トリィ』
緑色の鳥が、首を傾げていた。
…口に、桃色の花をくわえて。
「鳥型ロボット…?…なんで…」
瞬きを繰り返すキラに鳥は少しだけ近寄って、嘴にくわえていた花を窓辺にポトリと置いた。
こちらの目を、心なしかじぃっと見詰めては、もう一度『トリィ』と鳴き声をあげる。
「………、……くれるの?」
その花を手にしようとした時だった。
「…あ…」
高く鳴き声を発し、翼を広げてその鳥は飛び立った。
「―――、…―――行かなきゃ…」
暫しその姿を目で追うばかりだったキラは、やがて我に返り、自宅を飛び出した。
綺麗な人だな…―――と、思った。
緑の木漏れ陽眩しい公園の中。
追ってきた鳥型ロボットが降り立ったのは、一人の人の元だった。
ベンチに座り、軽く上げた片腕へと慣れた仕草で舞い降りる。
近付いたキラに気付いてこちらを見た視線に、素直な感想を溢せば綺麗としか言えなかった。
「あの…、その鳥は貴方のですか?」
静かな問いに、その人は頷きも否定もしなかった。
「造ったのは自分だが、本当の持ち主は違う」
「そう…ですか…」
「こいつも、早く持ち主のところに帰りたがってる」
そうして、こちらを真っ直ぐに見る緑の眼。
辺りの新緑にも負けないその視線に、キラは訝しさも込めて何かを感じた。
「………、…もし違っていたなら謝ります。…貴方は、僕の知り合いの人ですか?」
視線は揺るがない。
「どうしてそう思うんだ」
「貴方の目は今、他人を見る目をしていない」
記憶の掠れた自分は、相手が自分をどう思っているのか、その真意を探る警戒心もまた強くした。だから思う。
この人の視線の真っ直ぐさは、他人に向けるものじゃない。
じっと逸らすことなく見詰めた眼は…、やがて緩やかに閉じられ、その口元には柔らかな笑みが宿された。
「そう、だったな。…お前は、どんな風になっても人の目を見て話す奴だったな…」
するとその気配も表情も穏やかに緩んで、途端に慕わしいものになった。
拍子抜けしたのはキラの方だ。
「え?」
「今日はお前に渡すものがあって、トリィに呼んできて貰ったんだ」
お前が来るのかは、分からなかったけど。
そう言って立ち上がり、影に隠れて見えなかったベンチの片隅から、両掌に収まる程の小さな鉢植えを取り出した。
「プリムローズ」
キラは顔を上げた。
「お前はもう覚えてないだろうけど、昔、約束した花だ」
差し出された花は、桜色の小さな花びらを寄せあい、可憐に風に揺れている。
散ることもなく、土に根付いて掌の中で生きている。
「お前の為の花だよ。…キラ」
「―――」
…もう少し早く、渡せていれば良かったな。
そう切なそうに笑う姿は、やはり周りがいつも自分に見せる寂しげな表情と同じであり……そして、何処かが違っていた。
「…そっか…」
そう、自分にとっては、何にも代えがたい。
比べることなど出来やしない、
「…ふふ、……やっぱり…」
やっぱりアスランは…、昔からカッコつけで、キザなんだよなぁ…。
泣き笑いのように霞んだ笑顔をキラは送った。
目を見張る彼に、ただ微笑う。
そうだね。頭が覚えていなくても、きっと身体は覚えている。染み込んで離れはしない。
指先が、自分の役目を記憶していたように。
その時感じていた風や香りや、光の眩しさを。
「…―――ありがとう、アスラン」
「キラ、」
ねぇ、アスラン。
僕はまたいつか、君の名前を忘れるだろう。
君との思い出も、忘れて行くのだろう。
でも、朝。目を覚ました時。
傍らにこの花を見付けて、きっと何かを感じることだけは忘れない。
これを綺麗だと思って。
ここにこの花がある意味を考えて。
そして―――、
「変わらずに今日も、傍にいてくれるんだね」
いつか朽ちて消えていく儚い花の中。
望んだのは地上に咲く小さな花だった。
綺麗な綺麗な、約束の花だった。
→