4月1日23時27分。
もうすぐ日付の変わる真夜中。
アスランは一人、薄暗い林の中を歩いていた。
夜空には白い月。
空を紺色に変え、暗い筈の木々の中を明るく照らしている。
向かう目的の場所は、一本の木。
…―――それは、約束の場所だった。
幼馴染みで親友である、キラ・ヤマト。
思い返せば彼は、よく色んな場所で眠る奴だった。朝が弱いわけでもないのに、ふと気付けば何処かでうたた寝をしている。
人の来ない、静かな、何かに包まれたような場所で。
そしてそれを探すのが、親友たる自分の役目。
誰かに頼まれたことあったし、約束の時間になっても待ち合わせ場所に来ないことに業を煮やして探すこともあった。
そして、見付けるたび、思った。
…何でこんな場所にいるんだ? と。
加えて、何でこんな場所で眠れるんだ? と呆れたのが本音。
だが、子供心に親友を探して起こすのが自分の使命みたいに感じていたから、大変なんだぞと訴えてみても探さないと云う選択肢はさらさら無かった。
見付けてその寝顔を見るたび、随分と幸せそうに眠る奴だと思った。だから、溜め息を付きつつその寝顔を見守った。
それが、少年時代のこと。
…いつからか、自分達はあまり一緒の時間を過ごさなくなった。
幼い頃は会わない日の方が無いくらいだったのに、いつの間にか顔を見ない日常が当たり前になっていった。そうして歩む道も自分らの生活圏も遠くなり、滅多に会えない距離に変わっていた。
それが成長していくということだったし、もうお互いがそれぞれの人生を歩んでいたから、ふと思い出すことはあっても自分らの生活に大きく関わっていくことも無くなった。寂しいと感じる心も緩んでいった。
それは…そう、自分達には一年に一度の、約束があったから。
…―――春の始まりに、一緒に桜を見ようと。
子供時代の終わりに、自分達は約束の場所を作った。
月明かりを頼りにしながら、今年もまたアスランはその場所を目指して歩く。
迷いのない足取りは、もうとっくに慣れていることを表していた。
春真っ盛りには桜が満開になる林の中で、その木だけは一足早く花弁を咲かせる早咲きの桜。
別々の人生を歩んでも、必ず一年に一度、そこで会おうと…。
足が、止まった。
「…―――…」
辿り付いた場所。
闇の中、散っていく満開の白い桜。
約束の場所に、彼は。
「…―――キラ、」
………寝ていた。
「………」
アスランは一度目を閉じて息を吸い、…やがて吐くと同時に目を開けた。
そして。
…頭を叩いた。
「わっ」
「……起きろ。馬鹿」
木の根本にしゃがみ込んでいたキラが驚いて顔を上げた。
「お前は馬鹿か?こんな夜中にこんな場所で寝ていたら、風邪を引くじゃ済まされないぞ」
「だからって叩くことないじゃないか…!」
んもう、と不満そうに口を尖らせながら、土を払って立ち上がる。
固まった身体を伸ばすように伸びをして、アスランに向き直った。
「久しぶり」
「…ああ」
「なのに会う早々頭叩くとか、無いんじゃない?」
「昔みたいに起こしてやっただけだ」
小さな頃は起きない彼に手を焼いて実力行使もしたものだ。起きない人間が悪いのだと告げる。
ムッとした顔をしても大人になっても幼いままの表情は変わらず、アスランは笑ってしまった。
「まぁいいや。今年もちゃんと来てくれたし。…見て、アスラン」
…―――今年も満開だよ。
二人で見上げた空は今、色付いた白の世界に覆われていた。
ざわつく風が、生命を散らせる。
約束の場所に、相応しい。
「何か、眠くなっちゃう景色だね」
緩やかな静けさに、キラが眠そうなあくびを一つ溢した。
「お前、まだその何処でも寝るクセ治ってないんだな」
「んー…、癖っていうか、習慣?…前は起こしに来てくれた人がいたから、その時の気分が抜けない感じ?」
「お前な…」
「ホントにさ、アスランがいなくなってからはよく寝過ごして怒られちゃってさ…」
ぽつぽつと、キラは近況を語る。
「一応友達が探してくれるんだけど、『お前いっつもどこにいるんだ』って小言言われて」
「…だろうな」
昔の苦労を思い出して、苦笑いする。
「アスランは何でいつも僕を見付けられたの?」
「経験だ」
「あ、そう」
じゃあもう僕は、アスランがいなきゃ駄目なんだね。
無防備に笑うキラの一言に鼓動が跳ねるも、夢中で桜を見上げる親友はそれに気付かない。…それでいいとも、思う。
…―――叶うなら、ずっと傍にいたかったさ。
時の間など無視して、小さな頃のように、大人になってしまった今この時まで、傍らで一番長い時間を過ごしたかった。
でも、世界がそれを許さなかったから。
時間は流れ。
この約束だけが、二人を繋ぐ絆になった。
横顔を伺えば、キラはまたあくびを溢した。
眠気を耐えて目を擦る。
…その姿が、何だか。
「―――」
「アスラン。僕…なんかちょっと疲れたかも…」
溜め息のように息を深く吐いて、
「ちょっと座っていい?」
「……キラ」
「少し…さ。……また…眠くなって来ちゃったな…」
「キラ」
とうとう木に寄りかかって座り込み、弱々しく親友に笑い掛ける。
「アスラン」
静かに、キラは微笑んだ。
「…―――僕、もう…眠ってもいいよね?」
ザ…と風が鳴いた。
白い花びらが、その生命を散らす。
空には白い月。
泣いているように滲んだ、夜を照らすもの。
「アスラン」
立ち尽くす親友へと、少年は手を伸ばす。
引かれるように、崩折れるように膝を付き、真正面からその指先をそっと掴んだ。
体温の無い指先が頬に触れ、せめて温もりだけでも伝わるようアスランはその手を握る。…強く。強く。震えて込み上げて来るものに耐えるよう。
キラは淋しそうに笑った。
「もうすぐ、今日も終わるね」
俯いたままのアスランに顔を寄せて、キラは額を重ね合わせた。
いつも子供体温のように暖かかった温もりはとうになく、悲しい程にただ冷え切っていて、…それは寒空に長くいたからだと…アスランは自分に言い聞かせた。唇を噛み締めた。
「でも、今日、アスランにまた会えた。それが嬉しかった。……だから」
だから…―――もう、思い残すことはないよ。
「なに、言ってるんだ…」
頼りなく震える声を自覚する。
肩も。指先も。
思わず笑ってしまう表情も。
少しだけ離れた額と指先。
覗き込んだキラの瞳には、白い花弁しか映っていない。綺麗な菫色の眼は、夜に溶け込みはっきりと見えやしない。
「今年も、………今年は、会えたから」
「また来年も会えるだろ?再来年もその次も!」
キラは静かに首を振る。
「…もうそれは無理だって、アスランにも分かってることだよね?」
優しく…そして冷たい指先が再び頬に触れる。
「今日会えたことも、奇跡だったんだから」
そう。…一年前の、今日。
俺はここで一人、キラを待っていた。
約束と呼べるほどの確かな何かを交わしていたわけではないけれど、思い出をなぞるように果たされるそれは変わらず続くものだと信じていた。
親友は来るだろうかと、その時も少しだけ肌寒い空を見上げて待っていた。反対に、自分を待っていたキラもまた同じ気持ちなのだといつか聞いたことを思い出したりもした。
青空だったり、夜空だったり、見上げる空の色は毎年変わっても、この早咲きの桜だけは変わらなかった。
…変わらないものの象徴だった。
桜の寿命は人の一生と同じくらいなのだと聞いたことがある。
だから、自分達が出会い、共に見上げ、約束を交わして見守り続ける時と、同じ時間を歩んでいくのだと。
その象徴のようにも思えた、約束の桜。
しかしその年、キラは来なかった。
……その理由を知ったのは、随分と後だったけれど。
「…ごめんね…あの時は約束、守れなくて…」
ごめんね―――…、
ただ謝るしかない親友の姿は、霞むように儚く月明かりに浮かび上がる。
…謝るな。
お前は悪くない。……悪くなかった。
悪かったのは、この世界。
この、自分達が生まれた世界そのもの。
そして愚かだったのは自分。
一年前の今日。
何も知らずに、ただここで待っていただけ。
親友が、その時、命を―――…
「ねぇ、アスラン」
白く霞み、ぼやけた視界の中、キラの笑顔だけが鮮やかだった。
「アスランはいつも僕を起こしに来てくれたよね」
嬉しそうに。
懐かしそうに。
「僕が何処にいたって、探しに来てくれた」
瞼を下ろし、再び開けた親友の瞳の中に、愛しかった色がもう一度宿る。
それが多分、最後に見ることの出来た温かな光。
「だから、さ」
そうして、記憶と何も変わらない仕草で、
「ここで会う約束はもう守れないけど……新しい約束を、してもいい?」
そう、微笑った。
「また、僕に会いに来て。また、起こしに来てよ」
また、僕を見付けてよ。
差し出された小指。
その向こうで笑う少年。
昔と少しも変わらない、その優しさに。
「………ああ」
ただ一言だけを、新しい約束の証として。
消えていく親友の身体を、抱き締めた。
「…やっぱり、アスランはあったかいなぁ…」
その時確かにあった親友の温もりを…一生忘れることは無いだろう。
お前が生きるこの世界が、いつも春のような優しい色に溢れているようにと願う。
そうしてまたいつか。
その、約束の季節まで。
おやすみ。
どうか良い夢を。