「レイー、今日も来たよー」
そうしてひょこりと顔を出した先輩上司は、業務の撤収作業中だったレイ逹を振り向かせた。ひらひらと手を振っている。
キラさん!と喜色満面な同期生逹には構わず、早く作業を終わらせてしまおうとレイは手を止めないで黙々と片付けを行う。
「おい、レイ。何でキラさんがお前に会いに来るんだよ」
今日もってどういうことだよ、わざわざあの忙しい人がお前ん所に?と食い付いて来るシン逹を無視して、レイは今日の業務を終了させた。
「終わりました。行きましょう」
「はーい」
事情はさっぱりだが、いつもの無表情のレイに、ぱたぱたと子供のようにその後を付いていくキラ。
去っていく二人を、彼らは首を傾げながら見送った。
クライン邸。
花と水と光で溢れたその場所は、誰が見てもその屋敷の主に相応しいと称賛する。
レイからしてみれば、こんな場所に住んでいるから、年中お花畑な雰囲気が二人からは溢れているんだ、と斜めに思って溜め息を付いてしまう。
現に、今。
屋敷の一室で、ソファーにちょこんと座っているその人は。
にこにこと背景に花を飛ばしては、期待に満ちた目でこちらを見詰めている。
「今日も、ごめんね?」
「別に、構いません」
慣れました、と呟くレイの前には、一台の白いピアノがあった。
「最初に言い出したのは俺ですから。約束は守ります」
「…うん。ありがとう」
そう微かに笑ってキラは横になり、クッションを置いた肘掛けに頭を載せて、静かに目を閉じた。
………レイは、鍵盤に指を滑らせた。
音が、満ちる。
楽譜のない、即興の旋律。
けれども音色は、大切な何かを見守るように優しく包むように温かい。
たった一人の為だけへの静かで美しいメロディラインだった。
その約束を口にしたのは、どれくらい前だっただろうか。
鍵盤を弾きながら、レイは記憶を遡る。
始まりは多分、弱々しく笑うこの人を見た時。
疲れているんだろうなと思いつつそのままになっていたその数日後だった。
趣味のピアノを演習室で弾き終え、その帰り。
…―――――廊下でこの人が寝ていた。
『レイのピアノを聞いてたら、うとうとしてきちゃってさ』
そう恥ずかしそうに笑うキラの顔を見上げて、
『眠れてないんですか?』
『家には帰って、ベッドにもちゃんと入ってるんだけどね』
頭が冴え過ぎて眠れないということだ。
『子守唄みたいで、綺麗だったよ』
『…そうですか』
『レイの曲には、そういう作用があるのかもね』
そう言ったキラの顔は、幾分すっきりしているようだった。目元も柔らかく和んでいる。
レイは、静かに口を開いた。
『なら、どうしても眠れない時は、呼んで下さい』
大衆に聞かせたいと思うわけでは無かったから、どんなに褒められても心は変化しなかった。そんな風に自分の『音』が相手に何かをもたらすなんて思いもしなかった。
だから、せめて、と思った一言だった。
キラは、瞬きをぱちぱちと何度か繰り返し……それから、嬉しそうに笑った。
『ありがとう。じゃあ、頼りたい時は、レイのところにいくよ』
そうしてその人は、時折レイの元を訪ねてくるようになった。
一曲を弾き終え顔を上げたら、ソファーの上でキラは安らかに寝息を立てていた。
レイは音をたてずに立ち上がり、静かにその近くへと歩み寄る。
…子供のような寝顔だ。
髪に触れたら、くすぐったそうに身を捩る。
開け放された窓にそよぐレースカーテン。
音が止み、庭に遊ぶ小動物の声が響く。
自分には、この人を喜ばせる言葉など持たないけれど。せめてひとときでも眠れる場所を作ることが出来るのならば。…それが。
この人が起きるまでのその時間すら、自分にとっての安らぎでもあるから。
どうか、目覚めるその時まで。