「貴方は、空を知らない人ですね」
きっかけが何だったのか、よく分からない。
いつもみたいに会議と視察を終えて、定位置となった議長席に座った時だった。
二人だけになり、小さく息を付いて背凭れがぎしりと歪んだ時だった。
彼の唐突な切り出しは、今に始まったことではない。
慣れてしまえば、言いたいことを端的に一言で示しているに過ぎない。多くを語らず伝える人間は賢い。好ましく思う。
しかし今回は、一瞬何のことかと見上げた。
「この世界で…生まれたての赤ん坊以外に、空を知らない人間がいるのかな」
「貴方はずっと、空を見ていないんじゃないですか」
「………、意味がよく分からないね。今日だって何度も外に出た。空など毎日見ているよ」
机の向こうの瞳は動かなかった。
己の言いたいことが伝わろうが伝わるまいが、彼の眼はいつだって傍観するように静謐だ。
動くのは、世界が動く時のみ。
そうですか、といつものように返されて、結局その日はそれまでとなった。
翌日、いつも過密に詰め込まれたスケジュールに、何故かぽっかりと穴が空いた。
目の前の少年に、今日の予定はこれで終了ですと淡々と告げられ、…こういう日もあるかと頷いた。
それでも暗黙の義務と化した視察にでも行くかと席を立ち上がり掛けた時、
「付き合って貰えませんか。貴方が良いと云うのなら」
珍しく。
本当に不意を突かれたような瞬間。
滅多に掛けられることのない頼みを言われた。
「珍しいことだな」
「ただの無駄な時間となるかもしれませんが、構わないのなら」
「…いいよ。他ならぬ、君の頼みごとなら」
子供の思わぬ我侭を聞く大人の心境だろうか。
「じゃあ、すぐに準備をしてきます」
違うのは、その『子供』が変わらぬ無表情だったことだけ。
車中。
オープンの目の前から、涼しい風が通り抜けて行く。
珍しく、キラ自身がハンドルを握っていた。
「何処に行くんだ?」
「少し、郊外に。…いつもの護衛の人達を離してくれて、都合が良かった」
「君が、そう望んだんじゃないのか」
「言ったつもりはありませんが…」
「目が言っていたよ」
いつもその眼は凪いだ湖面のようでも、伝えてくる意思は如実であることを、彼自身が一番自覚していない。
周囲の人間達には、それが特に性質の悪いことだと思われているだろうに。
今その瞳は、風から守るための暗いサングラスに隠れてしまっている。
「……不安にはなりませんか」
ハンドルを切る彼の視線は正面から外れることは無かったが、変わりに言葉が多くなった。
それが何だか、喜ばしい。
「護衛がいないことがか?」
「そうです。こんなにも無防備に、この国の最高議長が一般道路を走っていたら、普通は格好の標的でしょう」
「気にしてはいないよ。何しろ、最高のボディーガードが隣にいる」
「………。……その人間こそが、一番の危険人物だとは思わないんですか」
「思わないね」
もしはっきりとその眼が見えていたなら、今度こそ分かりやすい複雑な表情を目に出来ていただろう。
しかし、深い追及はしなかった。
「…まぁ、僕達以外に誰もいない方が、都合が良いんですけど」
「私と君と、2人だけの方がかな」
「その言い方だと、何だか不本意ですが…」
眉を寄せながら、灰色の建物が少なくなっていく道を走らせる。
「むしろ、それを目的としたからこうしてるんです」
「それは?」
「余計な人間がごちゃごちゃいたんじゃ、ここまで貴方を連れ出した意味が無い」
面白そうに、前髪の揺れる隣の横顔を振り返った。
「昨日、貴方に言ったことを覚えていますか」
「ああ。…それに私は、毎日見ていると答えた」
そうですね。……でも。
「空を見ていたって、知らない人間は鳥と同じです」
あるいは、翼を知らない鳥籠の鳥です。
散文的で、時に哲学的で、時にたった一言で相手を再起不能に昏倒させる彼の言葉。
今はまだ答えを返すまい、と、流れていく風を感じていた。
到着した場所は、彼の言葉通り郊外に置かれた緑多き穏やかな丘陵。
灰色の建物の変わりに、ぽつりぽつりと細い樹が佇んでいる。
別荘地なのか何なのか、家はそれなりに有りながらも数は少なく、懐かしさを覚える景色のただ中にあった。
バタンと扉を閉めた音に気付いた時には、彼はサクサクと緑の草地を踏んで丘を上がっていっていた。
…珍しい光景だなと面白く思う。
いつも後ろに誰かを従えているばかりで、誰かの後ろを歩くことなど随分と久しい。
抵抗を覚えるわけでもない。
ただ純粋に、おかしかっただけだ。
掠める風に、独特な機械の匂いが混ざらないことに気付いて、…ああ、と納得した。
丘の上の一本木の側。
先に立っていた彼のところに辿り着き。
遠い場所を見ていた彼の隣、横顔を見下ろす。
「もしかして私は、君に気遣われているのかな」
「僕が貴方に対してそんなことするのは、おかしいですか」
さして気分を害した風もなく……関係ないと表情を一寸も崩さない。
元々、良い意味で他人を断りなく引っ張り回すのは、キラの誰に対しても変わらない性格だと。彼の親友を介して聞いたことがある。
まさしくその通り。
大人しく、樹の影に座ることにした。
そうして、キラもまた、すとんと細い樹の向こう側にも腰を下ろす。
隣でもなく正反対でもなく、遠くでもなく近くでもなく。
語ることも気を訴えるわけでもない人間が一人、すぐ傍にいるだけ。
何も求めてこない、というのは、時に心安らぐものだった。
長らく忘れていた心の余裕に、自然、目の前の景色を望む意識も視界も広がっていく。
今この時代にあって、ヒトの姿を見ない日も場所も、ほとんどない。
そもそもが人工物で占められた大地では、ヒトを感じずに生きられることなど存在しなかった。
それでも今は、その比率が少しだけ癒しに傾いている風景。
「どうして、私をここに連れて来たんだ?」
「可哀相に思ったから…です」
「私が?」
「貴方が」
「理由を聞いてもいいかな」
「いつも背後を気にして、横にいるべき人間を選んで、真正面をずっとひたすらに見続けてる。ひと時も座っている暇なんてない。…見てて哀れです」
後ろも横も眼前も。
休まらぬ身体。
目を閉じる場所は限られて。
常に緊張を張り巡らせ、寄ってくる人間を見定める。
責任は重圧であり、権限は多くの命を掌に握ると同義。
それに価値等しく望まれるのは、世界の平和だった。
それを彼は『哀れ』と云うのか。
面白く………、そして。
「だったら、いつまでも君がこうしていてくれたらいい」
「…?」
分かりません、と首がことりと動いた。
小動物のような仕草に笑ってしまう。
「こうして背中合わせで座ったまま、降りた手をすぐ傍に置いて……いつでも私を止める武器を真正面から構えていればいい」
それでも、どんな時にも、彼の傍で笑う自分の表情は、いつだって打算の無い静けさがあった。
彼の瞳がいつもあまりに静かだから、歳不相応な達観した凪を持っているから、いつの間にかそれを心地良いと思うようになってしまったのだろうか。
「樹の一本分でも境に遮るもののあるこの距離が、まさしく君と私の距離に相応しいだろう?」
「………、………」
沈黙。
そして彼は空を見上げた。
「貴方は、空を見ていますか」
再び。
「ああ。…見えているよ」
こうしてすぐ、目の前に。
わざわざ強く望まなくとも、当たり前のように眼の前に。
「今こうしている時だけになるのが、少し寂しいが。……少なくとも、勿体無いと思えるぐらいには」
空気すらも動かない程の小ささで、振り返る。
「……、貴方には、空は似合いませんね…」
おや、と思えば、初めて彼が笑っているのを見た。
自分の前で笑うことなど数える程しかなかったから、とても新鮮で……ある意味一つの戦略が成功した時の充足感にも似た満足を得る。
「だったらせめて……、……僕は、いつでも貴方の真正面で貴方を見ている人間になりましょう」
笑う。
応える。
「光栄だよ」
それは、己と彼の、最高の信頼だ。