D.G-Dr ほかも | ナノ


▼ 255度

「ウーッ!さっみー!」

慌ただしく締められた扉に、軽やかなリズムを刻んでいたまな板の音が止む。

「おかえりなさい」
「ん、ただいま」


マフラーを緩め終えた冷えた手が前髪を押し上げる。そこに触れるだけのキス一つ。それが彼の帰宅した合図だった。


高校最後の冬休み直前。この時期に希望した進路変更は担任を不安がらせるものになった。
元から学力は良い方。これからしっかり勉強すれば最後の受験には間に合う。考え直す気はないか。散々聞いた言葉を私は全て拒否した。


「はい」
「おっ、さんきゅー」

「アッチチ!」と言いながらも手渡されたコーヒーに彼の猫舌が触れる。部屋に唯一飾られている目覚まし時計はちょうど0時を回ったところだった。

「今日もお疲れ様」
「んあ?あぁ」
「試合はどうだったの?」
「ん……勝った」

コーヒーを片手に、空いた手がテレビのチャンネルへと伸びて二人だけの空間に下品なお笑い芸人の声が響く。

「ありす」
「なに?」
「お前、明日も早いんだろ?もう寝ろ」
「鉄朗ほどじゃないから。それにもうちょっと起きてないと」
「そっか」

短い返事だけ返して休めていたコーヒーをごくごくと飲みほし「風呂いく」と言って洗面所に消える彼の後ろ姿を見送る。少しして扉越しに聞こえた水音に腰を上げれば、ユニフォームやら練習着やらに占拠されまくってるタンスから着替えとタオルを持って洗面所に向かう。二人暮しをはじめて一つ目の冬。恋人になりきれない私達は、貧しいながらも小さな家族になっていた。


高校を卒業した私は一発合格だった近所のドラッグストアに就職した。就職、とは言ってもただのパート。せっせと働く社員を横目に、基本的には定時で上がれるのでとても助かっている。それにこのアパートから徒歩5分というのも面接を決めた理由の一つだった。
就職先が決まってからしたのは引っ越し。鉄朗の通う大学が徒歩20分ほどの距離にあるこのアパートは、夜遅くに帰宅することの多い彼にとって欠かせない生活の拠点となっていた。そして私は疲れて帰ってくる彼の世話をするのが専らの日課になっていった。


洗面所の扉を閉めると、ちょうど鍋がシュンシュンと音をたて始めた。夜遅くに帰宅する彼は大抵バイト先で賄いを頂いて帰ってくるのでこれは朝ごはんとお弁当のおかずに用意したものだ。一度煮込んで冷ます。その工程があるだけで味のしみこみ方が違うというんだから手は抜けない。一緒に住みだしてからわかったことだが、彼はグルメな猫だった。


そうこうしてる間に洗面所からはドライヤーの音がしはじめて私は慌てて炊飯器にご飯をセットする。あとは起きた時に魚を焼いて、味噌汁をつければできあがりだ。


「はー、サッパリした」
「ふふ。お疲れ様」
「あぁ!」

ボフンッ。今日干したばかりのフカフカのベッドに長身の体が沈む。その体から力が抜け落ちたのを確認して身支度を済ませ、部屋の電気を落とし自分も布団の中に潜りこむ。
いつものポジションに落ち着けば伸びる逞しい腕。僅かに抱き寄せられて首と肩の間に当たる細い息が寝る体勢に入ったのを感じ、回ってきた腕に手を添え瞼を閉じる。


恋人ではない。本当の家族でもない。それでもこうして触れてくれる。最初は抵抗あったキスも、今では彼なりの確認作業だと理解できた。

愛おしい。その一言に、尽きるのかもしれない。お互い似た傷を負って、それでも一人で生きるには辛いから。慰め合って、労わり合って。そうしてやっと立っていられる。
不安定な綱渡りから漸く開放されたような、今にも溢れそうなダムを抱えていたような。おどけた表情で隠し続けたピエロの涙。行きついた黒猫の拠り所。
自分だって同じ立場。むしろ彼の提案で去年よりも確りとした足で立っていられるようになった自分を思えば、彼は私よりはるかに強い。
それでも彼の拠り所が自分のいる此処なんだと思える今は、この温もりに守られていたい。願わくば、これからもずっと。
心で唱えて眠りにつく。


一人で寝るには寒い夜。背中のぬくもりがやけに安心できた。
私は一生このぬくもりに依存して生きていくのかと、浮かんだ不安を胸に隠した。



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太陽黄経255度【大雪】雪が激しく降り始める頃。鰤などの冬の魚の漁が盛んになり、熊が冬眠に入り、南天の実が赤く色付く頃。(Wikipedia参照)

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