ヘアクリップ・アンカー
あ、僕たちみたいだ。
と思った。
音符があしらわれたヘアクリップ。
華奢なワイヤーの符幹に優美に流れる符尾。
符頭には控えめに淡い紫の石が埋め込まれている。
僕の言葉に彼女が音を与え、彼女が紡ぎ出す旋律に僕が色をつける。
「ねぇ。また一緒に曲作らない?壮五くんのソロ曲。」
「ソロ?僕の?」
「もちろん、他の子たちが終わってからね。だから…そうね、1年後とか?」
僕のソロを皮切りに、他のメンバーのソロ企画も進行している。今は一織くん。来月はナギくんだ。
「1年あれば、じっくり作れるじゃない。」
ある日、いつもの様に彼女の仕事場でコーヒーを飲みながらそんなことを言われた。
「じっくりっていうのはね、今度はメロディーをベースに作り上げていきたいなって。」
「曲に歌詞を付けるということ?」
「うん。完全に曲を作ってからじゃなくて、音の感じを探りながら同時進行、交互に合わせていく感じ。」
「面白そうだけど…僕にできるかな?クリエイターである蒼さんの曲に合わせるなんて。」
正直、自信がなかった。あの歌詞も無我夢中になってなんとか作り上げたものだ。あの言葉たちを輝かせてくれたのは彼女のメロディーだ。
「壮五くんだってクリエイターでしょ。この業界にいる人はみんなクリエイターなのよ?」
八部音符のような軽やかさで。歌うようにそう言う。
「まぁ、まだ先の事だし、事務所も通してないし。私と音楽鑑賞を楽しむくらいのつもりでさ。」
座ったままデスクチェアごとくるりと回り、引き出しから2枚のCDを出してきた。
「今までの2曲はMEZZO"に寄せてつくったじゃない?もちろん、それは大正解だったわけだけど。」
「僕も好きだよ、あの曲調。明るくても切なくても、どこかに必ず爽やかさのある。」
「そう。そんな感じで私の曲を聞いて、どんな感じがしたか教えて。あ、学術的な感想はいらないよ?間違ってもPDFにまとめて送ってきたりしないでね?」
「……何で分かったの?」
「そーちゃんは真面目すぎてたまにギアが飛ぶ。」
いたずらっ子のようにふふっと笑う。
「分析じゃなくて、チューニングをするの。私の感覚とあなたの感覚。ピタリと共鳴するところが見つかったら、すごく綺麗に響くと思わない?」
はいこれ、とCDを渡された。
「デモだったり完成間際だったりアイディアメモ程度だったり。いろいろ入っているけど。まぁ試しに聞いてみて。」
中世時代、音楽はその調和を研究することにより、神の作り賜うたこの世界を知るための学問だった。世界と、そして宇宙と。
だとすると僕はそんな彼女の宇宙の海に溺れていることになる。
彼女の世界は眩暈がするほど広かった。
蒼さんが発表したメジャーな曲のほとんどはポップナンバーだ。
だがそれでも彼女の曲は実に多彩で、似た曲でもまったく違う印象を受ける。気さくな性格から、フィーリング重視で作っているのかと思ってた。なんて綺麗な色彩感覚を持っているのだろうと。
だが、それはコントロールされたや計算尽くの職人技だった。
「何にも考えず、思うまま作った曲だから。壮五くんも思うまま受け取って。」
そう言って渡されたCDは、解放された彼女の広大な感覚の世界だった。
ポップス、ジャズ、R&B、クラシック、ロック、エレクトロニカ。ラベリングするのがおこがましいくらい。
溢れ出るメロディー。
どこか違う次元から、テレパシーのように響いてくるバイオリンの音。
立っていられなくなるような衝撃、大地から突き上げてくる低音のエネルギー。
天から真珠の粒が零れ落ちてくるような、輝く音のシャワー。
勝手に涙腺をこじ開けられたとしか言い様のない、張り詰めたピアノのメロディー。
聴覚から直接神経に流れ、すみずみまで行き渡り全身を震わせる旋律。
深く広大なメロディーの海に放り出された感覚が、自分の部屋を認識するまでだいぶ時間がかかった。
なんて人を好きになったのだろう。
月に数回、蒼さんの仕事場で一緒にCDを聴き、感想を伝え、また新しいCDを受け取る。そんな日々のやりとり。
最初はなんとか感想としてまとめたが、広大なメロディーの海を前に僕の言語能力はあまりにも頼りなく、音の波に飲まれるばかりで。凪となった後、海面に浮かび上がってきた言葉をすくい上げ、ぽつり、ぽつりとこぼす。
彼女はそんな僕の言葉を聞き、時折視線を宙に(まるで音を探すように)さ迷わせ、うん、うん、と頷く。
「すごいね。蒼さんは。」
「そう?」
「すごいよ。君は一体どんな世界に生きているの?」
唐突だね、と苦笑する。
「おんなじだよ。壮五くんと。」
「そうかな。同じ世界に居たとしたら、きっと僕は溺れてしまっているよ。」
『来週の水曜か木曜、空いてる?』
『木曜なら午後からオフだよ。PM2:00でいいかな?』
『OK♪デート、楽しみにしてるね。』
『僕も。とても楽しみだよ。』
彼女の音の海に溺れて数ヶ月。心地よかった。
足元のおぼつかなさを除いて。
まるで酩酊しているようだ。
自分の存在の境界線が曖昧で、薄墨になって溶けてしまいそうで。
自分をコントロールできていないのに恐怖感はなく、ただただ心地よくて。
実際「そーちゃん、なんかボーっとしてっけど大丈夫?」と環くんにも言われ、仕事前には聞かないようにしていた。
酔っているだけではダメなのだ。僕はメロディーに言葉をのせなくてはならない。言葉を作り出さなければならない。
蒼さんの仕事場近くの駅ビルで約束までの時間を潰している時、ふと目についたヘアクリップ。音符の。薄紫の石の。
僕たちみたいだ、と思いたかったのかもしれない。
僕たちを繋ぐのは音楽だ。
でも果たして僕は彼女と同じ世界に居るのだろうか。
ぼんやりとした感覚のまま、そのヘアクリップを手に取った。
「こんにちは。壮五です。」
「はぁい。どうぞー。」
薄いヴェールのかかったような僕の感覚に最初に響いてきたのは珈琲の香り。
そして。
出会った頃よりだいぶ伸びた前髪を、目玉クリップで留めた彼女。
溢れてきたのは愛おしさだった。
ギュっと身体を締め付ける。
溺れて数ヵ月。
久々に感じた、自分の内側から湧く強く鮮明な刺激だった。
ドアを締め、一歩、二歩。
部屋に戻ろうと背を向けた彼女を後ろから抱き締める。
細身のしなやかな身体。ジャスミンのシャンプー。
逃がさないように、確かめるように、包み込む。
「なぁに?急にどうしたの?」
「好きだなぁって。あなたが。」
「そう?」
「うん。とても。」
とても。
海に溺れても。
君はここにいる。
ヘアクリップ・アンカー
「その袋。」
「…気になる?」
「駅ビルのアクセサリーショップでしょ?」
「…どうしようかな。本来の用途で使って欲しくなくなっちゃって。」
「なぁに、それ。」
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