帽子が招く非現実へようこそ



「環くん、僕がいなくてもしっかりね。それと冷蔵庫の王様プリンは一度に全部食べないこと。それじゃあ、行ってきます。」









僕は帽子をかぶり、歩きだす。

立春とは名ばかりで、冬はまだまだ終わらない。玄関を閉めながら聞こえてきた環くんの文句を、冷たい風がどこかへ連れ去る。帽子が風で飛ばされないよう、片手でそっと抑えた。

IDOLiSH7として、MEZZO"として。
僕の仕事はアイドルだ。
仕事は順調に増え、僕達の知名度もだいぶ高くなった。
僕達の事務所、小鳥遊芸能プロダクションはこの業界では小さな事務所なので、特に移動用の車などもない。
おかげで、日頃街中を歩く時には帽子は欠かせない。
帽子とそれからメガネ。
果たしてこれは変装に入るのだろうかと思う時もあるけれど、家庭の事情もありこれ以上事務所やメンバーのみんなに迷惑をかけたくない僕は、せめてもと身につけることにしていた。

それに、僕は元々帽子が好きだった。
幼い頃から外出時の正装の一部として馴染みもあったし、帽子をかぶると何だか違う自分になれるような、特別な事が起こりそうな気がしていた。
そして、それは大人になった今でも変わらない。
僕は今日も、この寒空の下に何かを期待して帽子をかぶり出かけた。







午前中の打ち合わせは予定時刻通りに終わった。
打ち合わせさえ終わってしまえば、今日はもう特に予定は入っていない。ここの所ひどく疲れが溜まっていたので、久しぶりにゆっくり過ごせるのはありがたい。このまま寮に帰るのも少し勿体ないような気がして、賑わう街から少し遠ざかる。一人きりの自由な時間。帽子をかぶり家を出た時に期待したような特別なことは起こらないかもしれないけれど、いい気分転換にはなりそうだ。

不意に強い風が吹いた。
突然のことに間に合わず、帽子が飛ばされる。
追いかけて行った先、もう手が届きそうな所で再び強い風。
幸いここら辺は人通りが少ない。僕は必死で帽子を追いかけた。

やがて風が止む。
ようやく帽子に追いつき、息を整えながら拾う。
目的物へと固定されたピントが、目線が下から上へと移る途中。






「こんな所に坂道なんてあったかな・・・・・・?」







何度も通ったことのある道なのに、初めて気がつく。
それはとても急な登り坂だった。見上げればまるで吸い込まれそうで、見つめればまるで「こっちへおいで」と手招きしているみたいだ。

せっかくの散歩なんだし寄り道もいいかもしれない。
僕は登ってみることにした。
進んで進んで、まだ進む。
どれだけの長さがあるのだろう?まだ峠は見えてこない。
と、その時。







「こんな所にお店がある・・・・・・。」






坂道の斜面に埋もれるようにひっそりと佇むその店。
いつからあるのだろう。
固めたままのような荒いコンクリートの壁にはいくつか蔦が絡まっていた。
シルクハットの形をした甲板からすると、おそらく帽子屋だろうか。
そこには“printemps”と書かれていた。
プランタン、フランス語で確か春という意味だったと思う。








不思議なトンネルをくぐって、普段見ている日常の裏側に来たみたいだ。
ちょっとした非現実に迷い込んでしまった僕は、
その店に入ってみることにした。




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