いつかあなたは、私を置いて行くのだろう。身体に染み付いた日常の隙間に、そう悟ってしまう瞬間がある。広い背中は何も語らない代わりに、私を突き放すこともしない。いっそ遠く隔たれた存在であればいいのに。そうしたら、同じベッドの上で違う夢を見る寂しさに打ちひしがれることもなかった。隣で眠るあなたに気付かれないように声を押し殺して泣くこともなかった。人を愛する喜びを知って以来、耐え忍ぶ努力だけが上手になっていく。

「ベルトルト…」

人一人を完全に理解することなど到底不可能だと、私だって分かっている。産まれてから今日この日に至るまでの道筋を他人が辿ることなんて出来っこない。だから、私がベルトルトと向き合った時に感じる「なんとなく手に負えない感じ」も尤もなことだと言える。トラウマや忘れたい過去を抱えることの多いこのご時世、進んで自らの記憶をひけらかす愚か者はいない。おつむが足りてないと同期から揶揄される私でさえ、どうして入団したか、その動機は誰にも明かしていないのだ。私たち訓練兵が知り得る互いの情報は決して多くない。プライベートな領域には触れないのが暗黙の了解であり、それは私とベルトルトの間でも同じこと。しかし、ベルトルトは特にその傾向が強かった。自分のことはあまり語らず、滅多に感情を露わにしない。私が優しさだと受け取った控え目な謙虚さや鈍感な微笑みも、全部作り物のように感じるときがある。その度に、私は教官に叱られた時よりも、訓練でヘマをした時よりもずっと、己の無力さに絶望した。私は、弱い。弱いからこそ誰かの庇護を求め、生きる理由を見つけようとする。そして、幼い頃から大切に温めてきた理由は二年前に失くしてしまった。だから訓練兵団に入ったのだ。復讐ではない、死に場所を求めて。死後の世界など信用しているわけもないが、あの人の真似事をすることで魂だけでも近付けるのではないかと、そんな夢みたいな空想だけが私の支えだった。




「妖精みたいだった」

初めての森の中での実戦を模した立体機動訓練が終わった夕餉の席で、珍しくライナーから離れ私の前に座ったベルトルトは出し抜けにそう言った。スープを掬おうとしていたスプーンが手から滑り落ち、咄嗟の反応が遅れて「ふぇ?」と何とも間抜けな声が漏れる。何を言ってるのか、彼の言葉を理解するのに精一杯で自らの失態を恥ずかしがる暇もない。妖精、って何だ。強く賢く美しく、羨望の的であるミカサ、あるいは天使のような容貌を具えたクリスタのように現実離れした魅力を持つ女性相手ならば相応しい賛辞であるが、受ける相手が私となれば皮肉にしか聞こえなかった。しかし、ベルトルトは碌に会話もしたことがない同期の女に突然皮肉をくれるような根性悪ではない。疎遠な関係でも、共に教官の叱咤を受け、訓練に励む仲間なのだ、個々人についてそれくらいの把握は出来ている。つまり、これは何かの間違いだ。

「ベルトルト…あなたは背が大きいから目に入らないのかもしれないけど、あなたの前にいるのはミカサでもクリスタでもないわ」
「え?」
「だから、よく聞こえなかったけど、さっきの言葉を進呈すべきなのは私じゃないでしょう?」

ベルトルトの優しげな口許から紡がれた言葉を、改めて口にする勇気はなかった。黄金色の輝きを持った美しい単語が、一瞬でも己なんぞに向けられたと勘違いしたことを認めたくなかったのだ。そんな私の思惑も一切無視して、ベルトルトは手放しで美味しいとは言えない固いパンを一口齧ると、もう一度先程の賛辞を述べた。興奮からくる緊張の色が抜けた、青年のような声だった。

「君にどうしても言いたかったんだ。木々の間を軽やかに飛び回る姿が、とてもきれいだった。背中に羽が生えてるみたいで。見惚れてたせいでもう少しで幹に衝突するところだったよ」

照れ臭そうに頬を掻くベルトルトを、私はやっぱり信じられないまま見つめていた。確かに私は他の訓練に較べて立体機動術が得意だけれども、それだって個人の中での絶対評価に過ぎない。成績優秀者に選ばれそうな面子と並べば、どうしたって頭一つ分以上、下にいる。そういった旨を平静を装った声ではっきりと返すと、ベルトルトは目を丸くさせた。

「確かに君は周りに比べて頭一つ分以上小さいけど、立体機動術は小柄な方が向いてるから…」
「そういう物理的な意味じゃなくて!チビって言いたいの?失礼ね!」

私のことをよく知らないベルトルトだから仕方が無いかもしれないが、私は身長に大きなコンプレックスを抱えている。クリスタとそう変わらない背丈だが、華奢で繊細なつくりをしてそうな彼女と違って、私の体には激しい運動にも余裕で耐え得るような頑丈さがある。クリスタが可憐に咲く野花ならば、私は踏まれても力強く生き抜く雑草なのだ。だから、ベルトルトの言う妖精なんてむず痒い言葉も似つかわしくない。

「そ、そんなつもりじゃないよ」
「まぁ、ベルトルトが嫌味を言える人だとは私だって思ってないけど」
「はは、ありがとう」
「…妖精ってなに?どういうこと?」
「…僕の故郷は山奥の村だから、口伝えの寓話もたくさん残ってて。森の妖精もその一つなんだ。美しい羽根と軽快な踊りで村人を翻弄するけど、湧き水や木の実の在り処を教えてくれる」
「ふぅん、悪者ではないってことね」
「まさか。君みたいに優しい精霊だよ」

随分と直球に褒めてくれるものだ。おかげでまたスプーンを取り落としてしまった。赤毛に隠れた耳たぶが熱を帯びているのを感じる。訓練中はミーナに指摘されて二つに括っている髪だけど、下ろしていてよかったとこれほど思ったことはない。「や、優しい?だ、だ、誰がよ」精彩を欠いた私の返答にも、ベルトルトは表情を崩そうとしない。整った顔がにこりともしないで自分を見ているのは、なかなか居心地の悪い光景だ。ベルトルトは真顔のまま、私の右前にある半分に千切ったパンを指差す。

「サシャのために残してるんだろう?それも毎日」
「少食だから、あの大食らいに残飯処理してもらってるだけよ」

半分本音で、半分嘘だ。空腹だと何を仕出かすかわからないあの問題児に、餌を与えて平穏を保つためでもあるし、サシャの能天気な笑顔は殺伐とした兵舎にささやかな安寧を齎した。ぎすぎすした空気も、蹴落とし合う環境も苦手な私は、こうやって誰かを利用して場の雰囲気を取り持とうとする。それは優しさではなく、ただのエゴで弱さだった。愚かな思考まで見透かされた気分になって、私は居ても立ってもいられなくなる。早くベルトルトの視線から逃れたい。その一心で残りのスープを流し込み、パンを持ってサシャの席に向かおうとした。立ち上がった私の左手首を、男の手が掴む。町娘に比べて細いとは言えないそれを、ベルトルトの大きな手はあっさりと包み込んでしまった。彼の前では、私もクリスタも同じなのかもしれない。

「次も楽しみにしてるよ」

漸く目の色に感情を乗せたベルトルトに心の中でひどく安堵して、「もう二度と妖精なんて呼ばないでよ!」と釘を刺す。ふわりと口の端で笑う彼に、今度は頬が熱を持った。笑っているところ、初めて見たかもしれない。仄かな感動に舞い上がったのを誤魔化すために吐いた恨み言を、ベルトルトはおかしそうに受け止めた。それが、私たちの始まり。




あれから幾月が過ぎて、私とベルトルトは恋仲になった。厳しい寮則を友人の計らいで掻い潜って、時折こうして同衾する。彼らのことを信頼してないわけではないのに、ベルトルトは決して手を出そうとしない。私がきつい訓練の愚痴を溢して、ベルトルトがそれを上手に宥めて、触れる体温に安心しているうちに瞼は落ち、気付けば夜は明けている。事情を知り、下品な笑みをにやにやと浮かべるジャンにもお望みの体験談を提供できたことはない。恐らく、これからもジャンを喜ばせることはできないだろう。ベルトルトは私をどこか怖れている。深入りしないように、なるべく記憶に残さないように。そんな哀しい心遣いに気付いたのはいつだったか。最初からベルトルトは内地での安穏を、私はあの人と同じように巨人と戦う壁外調査を望んでいる。分かたれる道ならば、後腐れなく別れられるように、といったところか。それでも私は、ベルトルトが距離を保つのは進路による問題だけではないと直感していた。ここを出たら、巨人が攻めてきたら、いつになるかはわからないけれど、必ずベルトルトは私を置いて行く。死ぬのはちっとも怖くないのに、彼に棄てられるのは恐ろしい。大きな背中に回した腕に力を込めると、押し付けた鼻腔を清潔な石鹸の匂いがくすぐった。

ライナーが言っていた。あなたの村に伝わる妖精は、普段は無害だけれど、時折気に入った村の男を魅了して永遠に暗い森の中を彷徨わせるんだって。私はいつか、あなたの瞳を奪ったように、本物の妖精になれるだろうか。




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