笠松幸男はわたしにとってすべての善なるものの象徴だった。心酔、していたのだと思う。大洋のように寛大な精神と荒立つ波のような激しさと両極端な才を見事に持ち合わせた彼はまるで海そのもので、わたしは正しく浸水していた。彼の優しさに、浸って、微睡んで、あの日々こそが、幸福と名付けるに相応しい毎日だった。





「じゃあ、なんで別れたんスか」

生意気な口を利く目の前のモデルにじろりと冷ややかな視線を送ると、彼はほぼ無意識に長い両腕でガードしてみせた。まったく、不愉快だ。日本人離れした端整な顔立ちも、目に痛い金髪も、標準規格の備え付けの椅子に窮屈そうに収まる神に恵まれた体格も、全てがわたしの神経を逆撫でる。彼を思い出させる部分が一つもない。彼と重なる仕草も何一つ見いだせない。それなのにどうして、わたしはこんな男と向かい合ってなければならないのだろう。苛立ちを溜息に変えて吐き出すと、黄瀬は再び萎縮して情けない声を上げた。

「言っとくけど、そっちが俺を呼びつけたんスからね」

わたしの思考を読んだのか、黄瀬はわたしの問いの答えを不満そうに漏らした。そうだ、わたしが彼を呼んだのだ。結論から言えば、わたしと幸男が別れたという事実はない。そもそも、こいつみたいな後輩までがわたしたちが別れたと認識していることすらおかしな事態だった。

「わたしたち、別れてないもん」
「はぁ?でも笠松先輩に先輩のこと訊いたら『俺には関係ない』って言ってたスよ」
「どうしてそれが別れたってことになるの」
「へ、だって先輩練習見に来なくなったし、一緒に帰らなくなったし、そういうことじゃないんスか?」
「もうすぐインターハイだから、バスケに集中できるように距離を置いただけ」

わたしがそう言うと、黄瀬はわかりやすく眉を顰めた。彼の入学以来、かなりの時間を共有していたからわかる。黄瀬は言いたいのだ。笠松幸男はそんな男ではない、と。彼女の存在に気を取られて集中力を欠くような、ボールを抱える腕が鈍るような、そんな陳腐でふざけたやつではないのだと。わたしだって十分に理解している。幸男のバスケへの情熱は本物だ。実力もあるし、昨年の敗退を機に芽生えた、チームを引っ張っていくキャプテンシーも存分に発揮している。ただし、彼はキャプテンであると同時に一人の優しい男なのだ。わたしがいくら気を遣おうとしたところで、遅くなれば必ず家まで送ってくれるし、重い荷物は持ってくれてしまう。幸男は優しいから、バスケを理由にわたしを蔑ろにすることができない。わたしはそのことが、怖かった。わたしと一緒にいたら、わたしを庇って思わぬ怪我をするかもしれない。大好きな幸男の悲願を、わたしなんかのためにめちゃくちゃにしてしまいたくなかった。そうした懸念の結果、わたしから離れた。

「だから、バスケ部のこと教えてほしいの」
「笠松先輩に訊きゃいいじゃないスか」
「それじゃあ気を遣わせちゃうじゃない。幸男はわたしがバスケに興味なくなったから見に来なくなったって思ってるもん」
「それ……勘違いじゃん」
「…別に、全くの勘違いってわけでもない。わたしは幸男がバスケしてなかったら、練習も試合すらも観に行くことはなかったと思うよ」
「バスケ、好きじゃないんスか?」
「好きよ、幸男の次くらいには」
「はー、相変わらずすぎて何にも言えないッス」

やれやれだぜ、と言いたげに肩を大げさに竦める黄瀬の脛を思い切り蹴り飛ばしたい衝動に駆られたが、なんとか踏みとどまった。彼は大事なエースだ。わたしの大好きな幸男が大事にしてるチームの未来を背負った、希望と期待の象徴。万が一にも足を痛めるようなことがあってはならない。わたし個人としてはいけ好かない後輩だけれども、幸男の幸福に対する貢献度は、きっと黄瀬の方がずっと高い。だからわたしは大人しく、黄瀬から現在のバスケ部の状況、というよりも部内での幸男の現状を訊き出すに努めた。

「彼女じゃなかったら、マジただのストーカーっスね…」
「彼女なんだからいいでしょ」

げんなりした顔から、言いたいことは大体察せられる。わたしの幸男への好意は、愛情は、一般的な目線で比べれば重過ぎるのだろう。生まれたときから隣にいたわたしと幸男は、幼馴染という便利な逃げ道で行ったり来たりしながら、高校入学まで付かず離れず傍にいた。枠を飛び越えて恋人同士になったきっかけは、なんだったのかもう覚えていない。ただ、わたしは幸男以外の男を一度も視界に入れたことはないし、今後もないと言い切れる。幸男はわたしにとってすべてだ。わたしの命と引き換えに幸男が助かると言われたら、即座に捨てられるくらい、心底愛している。

「ハハ、まー俺には関係ないんスけどね。奢ってもらえるしラッキー」
「たかがシェイク一個だけどね」
「先輩意外とケチっスよね」
「えーナゲット一つあげようか?」
「しょーがないから貰ってあげます」

形の良い口が大きく開き、わたしが差し出したチキンナゲットにぱくつく。あまりの勢いに指まで持っていかれるんじゃないかとすぐに引っ込めた。そういえば黄瀬はモデルなのに、こんな風に女子生徒とファストフード店なんて気軽に寄っちゃってもいいんだろうか。わたしは別にかまわない。黄瀬のファンの女子生徒に絡まれたところで、幸男への愛を語れば裸足で逃げ出すだろうから。ただ黄瀬の方は、週刊誌とか、事務所とか色々大変なんじゃないのか。わたし相手じゃそんな風な勘違いすら起きないのか。

「黄瀬、モデルの君をこんな衆人環視の場に連れ出してほんとにごめん」
「別にいいッスよ。先輩なら」
「?」
「先輩、俺のことどう思ってます?」
「幸男の大事な後輩」
「……期待通りの反応っスね」

黄瀬がシェイクを啜る不細工な音だけが、二人ぼっちの空間を支配する。隣のテーブルの女の子の黄色い声も、注文を繰り返す店員の事務的な声も、補足は出来ていたけれど、意味として頭に入ってこなかった。何も言わない黄瀬なんて初めてで、どうしていいかわからない。この瞬間だけは、黄瀬のことしか考えていなかった、と言える。でもその不調を心配するのはやっぱりチームのキャプテンである幸男のためで、どうしたってわたしには幸男しかいないのだと思い知らされた。

「試合、いつ?」
「初戦は明々後日ス」
「そっか、がんばってね。応援してる」
「…笠松先輩のために?」
「そんなことないよ、黄瀬もがんばって」
「あったりまえっス!」

にかっと笑った黄瀬はいつも通りで、ああよかったと胸を撫で下ろす。きっとこの輝きも、誰かにとっては掛け替えのない宝物なのだ。もうしばらく見ていない幸男の笑顔を思い出すと、心臓がきゅんと跳ねるのを感じた。早く、早く、インターハイが終わればいい。ずっと幸男の夏が続いてほしいと願う反面、わがままなわたしはそうも祈ってしまう。わたしと幸男を引き離すのがバスケであり、幸男の青春を繋ぎとめるのもまたバスケなのだ。明々後日。なんという偶然か、その日は幸男の18回目の誕生日だった。毎年家族ぐるみでパーティーして、ケーキをみんなで食べるのが恒例で、付き合い始めてからはその後にどちらかの部屋でプレゼントを渡すのが習慣に加わった。今年は、笑顔で迎えられるだろうか。幸男も、彼が率いるチームも信じているけれど、勝負の世界に絶対はない。どうか、彼に悔いが残りませんように。わたしにはいつだって、祈ることしかできない。





試合の前日、隣の家の二階の端っこの部屋の灯りは11時を回っても点かなかった。いつもの通りなら、カーテン越しに幸男の生活が見える時間帯だ。もしかして、と思った時には既にわたしの手はちょっとした外出のためのパーカーを握っていて、鏡で化粧の落ちた顔を覗き込んでいた。この程度の顔なら許容範囲内だろう。そのまま両親に見つからないようにそっと扉を開けて、頭で考えるよりずっと先に近所のバスケットコートに足は向かった。静まり返った住宅街、遠い世界の出来事のように聞こえる自動車のエンジン音を置き去りにして、わたしはひた走る。背の高い街灯に照らされたフェンス越しに、見慣れた背中を見つけた。あのモデルと比べたら、少し見劣りするけれど、わたしにとっては誰よりも大きくて広い背中。近くまで来て、スリーポイントラインからボールを投げ続ける彼の横顔が目に入った瞬間、声を失った。空気を肺に取り込もうとしてひゅっと変な音が鳴る。幸男のことは、すべて理解してるつもりだった。でも、今、目の前にいるこの人が放つ窒息しそうなほどの緊張感も、弱弱しく震える肩も、眉間に刻まれた深い深い皺も、わたしは知らない。ゆきお、呼ぼうとした声は、夜の空気に飲まれて消える。遠い、遠い、距離。こんなに近くにいるのに、わたしは彼に話しかけることすら許されていないのだ。一歩後ずさったところで、足元のコンクリートが無様な音色を奏でた。さすがに聞こえてしまったのか、張りつめた空気が一瞬乱れて、幸男の集中力も切れる。今しかない、とわたしの口は必死に動いた。

「幸男!」
「…なんだ、お前か」
「やりすぎ、じゃない?さすがにもう寝た方が…」
「わーってるよ」
「わかってない」
「はぁ、……落ち着かねぇんだよ」
「明日、試合だから?」
「なんだ、知ってたのか」
「黄瀬に聞いた」
「…俺に訊けばいいだろ。つーかバスケは興味ないんじゃなかったのかよ」
「バスケ自体には興味ないけど、幸男がするバスケには興味ある。でも距離置こうって宣言しちゃったし、なんか気恥ずかしくて」
「それが意味わかんねぇ。なんでいきなり距離置くとか言い出したんだよ」
「それは…、わたしが…」

ごくりと、息を飲む音が反響した。幸男は練習をやめたのか、コート脇に置いたエナメルバッグからタオルを取り出している。背中しか見えない今なら、素直に言えると思った。向き合ってしまうと、いつもだめになってしまう。幸男の眼差しはまっすぐすぎて、本当に言いたいことは喉元から先には出てこない。

「お前がなんだよ」
「わたしが、幸男の邪魔しちゃうんじゃないかなって思って」
「はぁ?」
「幸男は完璧だから。わたしが傍にいると、余計なものになっちゃう。いつか取り返しのつかないことになる気がする。最後の夏だし、わたしは、幸男の邪魔はしたくないよ」

幸男は、幸男だけで完成されている。そんなこと、出逢った時から幼心にわかっていた。小学生のときは男子に虐められるわたしを庇って何度も喧嘩をした。中学のときには女子からハブられたわたしとずっと一緒に行動してくれた。幸男は、わたしのために要らない苦労をしている。優しい彼はそれに気づかないけれど、もらいすぎているわたしにはわかる。わたしの存在が、彼を鈍らせて、曇らせて、濁らせていくのだと。きっと、幸男は否定する。邪魔なんかじゃない、ってわたしの欲しい言葉を言ってくれる。それだから、わたしたちはだめになってしまうのだ。

「ばっかじゃねぇの、お前」

帰り支度を終えた幸男が、コートから出てきてわたしの横に並ぶ。結構な時間練習していたはずなのに息一つ乱れていない。わたしの手首を乱暴に握る大きな手はじんわり湿っていて、すごく熱くて、思わず上気した頬を空いた手で押さえると、呆れた目がわたしをじろりと睨んだ。

「ば、ばかって…」
「んなこと考えて、距離置くなんて言ったのか」
「…うん」
「はー、抜けてるとは思ってたけど、ここまでだとはな」
「なんだと…!」

ずんずんと進む幸男に、引っ張られる形で家路を辿っていく。わたし相手しか知らない幸男は、女の子の歩幅に合わせるってことを無意識に出来る男ではない。わたしが文句を言って、初めて自分が早すぎたことに気付くのだ。今日は何も言わない。彼が前を行くのがちょうどいいから。

「お前が真剣なのはわかるけど、逆効果だっつの」
「…ごめん」
「勝手に距離置くし、のくせに黄瀬には会うし!なんなんだよ」
「へ?黄瀬?なんで?」
「…わかれよ」

どこか拗ねたような声を出す幸男は、振り向こうとしない。わたしの標準的な身長では首筋くらいしか見えなくて、その表情を窺い知ることなんて到底できなくて。仕方ないから握られた手を振りほどいて、指と指を絡めた。努力の跡が伝わってくる掌が、いつだってわたしをこの世界に繋ぎ留める。わたしの生きる道標、すべての命が還る海。わたしは幸男から離れることなんてできない。

「お前は俺がいないと死ぬけど、俺はお前がいないと生きてけねーんだよ」

わかってる、そんなの、わかってる。わかってたから手を放したのに、また繋いでしまった。わたしの決意のなんと脆弱なことだろう。きっとこうやって、死ぬまで幸男に頼り続けて生きていく。それでも、こんなだめなわたしを幸男が受け入れてくれるから、それでいいのだ。絡んだ指に、ぐっと力を入れる。それと同じだけの力に加減した愛情が、しっかりと戻ってきた。この一致こそが、幸せの証なのだと漠然と思った。もう一度背中を見上げて、にやける口元を隠すこともしないまま、空いた手でポケットの中のスマホを取り出す。幸男とお揃いのストラップが夜風に揺れた。

「っ!誕生日、おめでとー!」

いつの間にやら日付が変わっていたので、後ろから抱き着きながら高い位置にある耳に向かって叫ぶ。明日の試合は、最前列で応援しよう。勝っても負けても、笑顔で迎えよう。他のことは、全部チームメイトがしてくれる。わたしにできるのは、彼のために笑うことだけなのだ。わたしの万感の思いを込めたハグに照れ臭そうに視線を逸らす、そんな彼のことが誰よりも大好きです。




世界で一番暑い夏に愛をこめて。 / 雛子

2012.07.29 for Kasamatsu's birthday




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