Dの章 ずっと、好きだったことを忘れたかった。 目を開けると、スーツと腕時計をした左手が見えた。間接が太い指を見て、男の手だということは分かった。ということは、あの人か。 首に掛かった名札には、やはり『井津島大悟』と書かれていた。卵形のカプセルから中を出ようとすると、足はやはり何不自由なく動いた。久しぶりの足が地に着く感覚に感動したが、車いすに乗った元俺の体が見えて、少し申し訳ない気持ちになった。いや、全く動かないわけではないし、しばらく経てば動くようになるのだ。何も悪いことはないだろう。それに、そもそも、この体と人生を放棄した人間だ。喜んでいるくらいかもしれない。 俺は無理矢理自分を納得させて、とりあえず、髪とスーツをできるだけ整えた。元々しわだらけだったので、できる範囲には限りがあったが、無駄ではないはずだ。 ポケットにあったスマートフォンが鳴った。開いてみると会社からかかってきていた。しかも、何件も。大悟さんの記憶を探ってみたけれど、休暇届けは出している。 面倒だから、電源を切り、車から降りるとそのまま一人暮らしをしている大悟さんの家に向かった。黒いマンションの15階。言葉を選ばないのならば、ぼろい。まあ、男だから気にしないんだろうな。こんな格好しているヤツだし。 ドアを開けてみると、家具以外見事に何にもなかった。ゲームは大人だからないにしても、漫画も本も、CDもDVDも。トレーニング器具なんてもちろんないし、ゴルフクラブもない。 こいつ、普段何して生活してるんだ? 記憶を探ったら、寝ているだけらしい。会社が忙しいということもあるが。家事もままならないらしく、お皿は水につけっぱなしだし、床にはゴミが散らかっている。 しかたがない。高校生だった俺が一気に大人の体になったこともあったから、たくさんやりたいことはあったけれど、掃除をすることにした。まあ、時間がかかることかかること。日が暮れた頃、俺が住んでもいいやと思うくらいには片付いた。引き出しからカップラーメンを出して、お湯を注いだ。 食べ始めたら、疲れと安心感と明日からの不安が一気に襲ってきた。食べ終わると何もすることはなく。スマートフォンもつける気力はない。珍しい。 足が動くようになったのだから、日課となっていたトレーニングをやってみようかと思ったけれど、サッカーができなくなったきっかけとなった出来事を思い出してしまいそうだったからやめた。 何も考えたくもなくて、そのまま寝ることにした。明日はきっと、今までよりもいい日になるはずだ。少なくとも、足は動くのだから。 朝の俺は完璧だったはずだ。目覚ましが鳴る前に起きて、カップ焼きそばを食べ、スーツは指でできるだけ伸ばして着て、予定していた電車に乗り、大悟さんが普段出社している15分前に出社してやった。おまけに社長に昨日のことを言われたけれど、全て『スマホが水没しました。』で済ませた。高校生が考える言い訳を当然誰も信じなかったけれど、昨日充電を忘れてつかなくなったのを見せると納得した。ほら、完璧だろ。会社の大人だって先生と変わらない。見せる物があれば黙る。 それから大悟さんの記憶を使って問題なく仕事をした。大悟さんの会社は旅行会社だった。主にパンフレットを作ったり、申し込みの手続きをしたりしている。大悟さんの性格というかおそらく身なり上、裏方でデータをまとめている感じ。 それにしても、さすがは大人だ。タイピングが早い早い。ローマ字なんかまともに覚えていなかったのに、勝手に指が動いた。気になったことがあったのは、お昼休みからだ。 昼食は当然給食は出ないので、コンビニで俺の好きなハンバーグ弁当を買った帰り。何人かの女性社員がこっちを見てこそこそ話していた。大悟さんと同じ部署らしいけれど、話したことはそんなにないらしい。仲良くもないから通り過ぎてもいいのだが、何も言わずに通り過ぎるのはどうなのかとも思う。 学校では何て言われたっけと俺自身の記憶をひっかき回して、そういえば、と思った。あいさつが何か大事だって言ってた気がする。元気のないあいさつはうんたらかんたら。とりあえず、それでいこう。 「こんにちは」 とりあえず、それだけ言って通り過ぎようとしたら、女性社員はびっくりした顔で、あいさつを返してくれた。会社はすごい。あいさつしなかったら学校だったら、先生に一言何か言われてしまうのに、何も言われないなんて。 「あの、いつもはカップ麺なのに珍しいですね」 「そうですか? これ好きなんですよ。俺の地方にはない目玉焼きつきなんですよね」 「それ、ロコモコ丼っていうんですよ」 「えっ、モコモコ?」 俺は自然に返したつもりだったのに、店員が注目してしまうくらい一斉に笑い出した。いつもの俺なら腹がたちそうなのに、その中の一人、茶髪のおかっぱ頭の人の笑顔に見とれてしまった。 「井津島さん、実はおもしろい人なんですね。それはロコモコ丼っていって、ハワイの食べ物なんですよ」 名札に名張優子と書いてあるその人は、親切に教えてくれた。 「そうなんですね。初めて食べるので楽しみです」 俺は何だか急に恥ずかしくなってきて、それではと言って自分の机に戻った。 大悟さんの記憶を探るまでもなく、あれは大悟さんが片思いをしている人だということが出てきた。そういうことはもっと早く教えてほしい。大悟さんが片思いをしている人の前で恥ずかしいことをしてしまったじゃないか。なかなかきれいな人だから、何だか余計に恥ずかしい。 午後の仕事も何も問題がなかったが、社長に声をかけられた。 「井津島君、次の企画なんだけれどな、これでいこうと思っている」 「えっ、これですか?」 そこには、俺も好きなサッカーのクラブチームのポスターがあって、俺は一気に高校生に戻った気分になってしまった。 「次は、このクラブチームの応援ツアーを作ろうと思ってな、君にお願いしたい」 「でも……」 俺は嫌な記憶が襲ってきて、言葉を続けられなかった。 「嫌なら別の人にするからいいんだよ。でも、珍しいね」 「えっ?」 「いつもは何を言われても何も言わないのに、今日は違うね。実は心配だったんだよ。いや、いいことなんだろうけれど、全部同じというかね、何も考えてないというかね。何やってもおもしろくないと感じているのではないかと思ってね」 それは、多分、大悟さんだったら間違っていない。でも、今の俺は……。 帰ってきてからも、その記憶が俺の心を塞いでいた。少しでも逃げ出したくて、俺は腕立て伏せをはじめた。 それでも記憶は俺に覆い被さってきた。 南高校のサッカーのエースと呼ばれていた俺は、インターハイでも得点王として活躍していた。しかし、決勝戦。誤って相手の足を蹴ってしまい、レッドカードで退場してしまう。その時の怪我で、俺も相手選手も試合に出られなくなった。それもあり、南高校は準優勝になった。 サッカーがしばらくできない体になっただけではない。そのことでいろんな人に責められた。お前があんなところであんなミスをしなければ、南高校は優勝できて、相手もサッカーを続けられたのにと。 小さい頃から入りたかったクラブチームがあったけれど、俺は、もう二度とサッカーをしてはいけない。そして、異人転生計画で、もうサッカーと関係ないところに来たはずなのに。何でまだ俺の周りをうろつくのだろう。 急に腕に痛みが走って、俺は腕立て伏せを止めた。まだ100回もいってないのに。そうだった、いつもの俺の体じゃないんだった。 思えば大悟さんの体は大きいけれど、少ししか筋肉がついていない。それも腹がたってきた。何やってもつまらないだろう。そりゃあそうだろ。何もしたくないし、何もしようとしないんだから。 今の俺も何をしたいかは分からないけれど、この日常とは向き合ってみせる。そのために体づくりをしよう。そう決めた。 次の日、遠くから気になる言葉がやってきた。 「えーー、席はゴール側のがいいんじゃないですか? その方が迫力があるというか。ほら自由席ですし、手続きも減るじゃないですか」 「そうだよな。やっぱりそう思うか。じゃあそうしてくれないか」 「待ってください!」 気がついたら、俺は声を上げていた。 「ゴール側の席は、確かに迫力がありますが、それ以外のプレーが見づらいんです。サッカーのゴールなんて一瞬です。それよりは、テレビで見るように横から見た方が、初めて見た人も、サッカーが好きでパスなどの流れを見たい人も見られると思うんです! だから、席はメインスタンドやバックスタンドにしましょう!」 「あれ、井津島君、昨日この企画断ったけれど、サッカー詳しいんだね」 しまった、という頃にはもう遅くて。いつの間にか立っていたので、慌てて座ろうとしたら既に社長は俺の横にいた。 「サッカー観戦いったことがない人よりも詳しい人が作る方がいいツアーができる。やってくれないか?」 俺は断ろうとしたけれど、それより先に初めて見たあの試合が目の前に広がった。 違う気がした。サッカーがもうできないとか、もうやりたくないとか、そういうので俺が好きなクラブチームを楽しむ方法を知っているのに何もしないのは間違いだ。 「俺、やります!」 確かに、俺の元の体は今はサッカーができないし、状況はサッカーをやることを許さないかもしれない。でも、今ここで俺ができることをやらないのは絶対に違う。 俺は、俺自身が持っている記憶と経験でツアーを創りあげた。ツアー創りに関しては素人だから周りの観光地も調べて、大悟さんの記憶と経験も使って時間を埋めていった。 「これ、最高じゃないか!」 お昼過ぎに作っていった企画書を見せると、社長は部署中に響き渡る声で賞賛してくれた。 「なぜ、すぐ引き受けてくれなかったんだ! これを来月のの目玉にしよう! ありがとう!」 「ありがとうございます」 俺はそれだけ言って、会社から出た。中庭のベンチに腰を下ろした。 終わってみれば、あれでよかったのかと思うことばかりだ。いや、ツアーは最高のできだ。俺と大悟さんの力を合わせた最高傑作だ。社長もそう言ってくれた。 それは間違いではない。でも、こんな俺が、サッカーを楽しむ人に関わることをしていいのか? 今からでも取り下げてもらった方がいいのではないか? 「井津島さん。びっくりしましたよ」 聞き慣れた声に顔を上げると、名張さんがいた。 「サッカー詳しいんですね」 「いや、それほどでも……」 今の俺は大悟さんの体にいる。大悟さんはサッカーに詳しくないから嘘を言っているわけではないけれど、周りからは嘘に聞こえてしまうだろうがあいまいに答えた。 「少し、私の話聞いてくれますか?」 「えっ、あっ、はい」 「私、昔から旅行するのが夢だったんですよ。世界一周旅行。でもとってもお金かかるじゃないですか。だから簡単に旅行行った気分になれないかなっ考えたらね、そうだ、旅行会社に勤めればいい! そういう簡単な気持ちでこの会社に入社したんですよ。 でもね、この仕事をしているうちに、旅行している人をもっと楽しませることできるんじゃないかなとか、そうするべきなんじゃないかなって思うようになったんです。……そう思うのは簡単なんですけれど、なかなか上手くできなくて。だって、私だって行ったことがない国もたくさんあるし、ネット上で情報はあっても、やっぱり実際とは違うし。 だから、今日の井津島さんを見て、新しくいいツアー創れる人ってすごいなって思ったんですよ。だから、今日のこと自信を持ってください! 誰でもできることじゃないんです! それだけ言いたくて、つい追いかけてきてしまいました。ごめんなさい」 その話を聞いているうちに、僕の中から、試合に勝ったような気持ちがわき上がってきた。サッカーゴールに向けて蹴ったボールが日の光を集めたゴールに吸い込まれていく。そこからサッカーゴールよりも遠くへとんでいけそうな気がした。 「いえ、全然ごめんなさいじゃないですよ。すっきりしました。ありがとうございます! 名張さんは優しい人ですね。」 俺は心からそう思った。名張優子という人は、すごく素敵な人だ。さすが、大悟さんが好きになっただけある。 名張さんは少し顔を赤らめていた。何も考えずに言ったが、もしかして、なかなかいい雰囲気つくれたんじゃないか? 「あの、あと、ロコモコ丼はどうでしたか?」 「あっ、えっ、おいしかったですよ! はい」 今度は俺が恥ずかしくなる番だった。そんな俺を見て名張さんは笑うから、まあ悪くはないけれど。 「お昼まだですよね、一緒に買いに行きましょう!」 そして、俺はまた帰ってきて筋トレをしている。今日あったことを思い返していた。 俺の元の体はサッカーをできないけれど、まだ俺はサッカーを通してできることがあった。これから俺たちの企画で楽しんでくれる人がいると思うとそれはとても幸せなことだ。 俺の怪我も一生治らないわけではない。クラブチームもなくなるわけでもない。 俺にできることは、俺がしたいことは、まだ変わらずそこにあるのではないか。 そう思ったら、俺は電話をかけていた。着信履歴の一番上の番号。異人転生計画のマスター代理に繋がるはずだ。 俺にはまだやりたいことがある。大悟さんにもきっとある。少なくとも、名張優子さんとは付き合いたいはずだ。そもそも告白しなければもったいないくらいいい人だ。 それまでには、あの人を守れるように、何かしたいと思ってもできるように、体づくりはしとこう。それがこの2日間の俺なりのお礼だ。とりあえず、筋トレのメニューは残しておくから、好きにすればいい。 俺は習慣になっていた足のトレーニングを久しぶりにはじめた。 後書き 読んでいただきありがとうございました! 重い重いいいながら、2時間ほどかけて、一気に書き上げてしまいました! 重いけれど、高校生のサッカー少年なので、とても明るくしてくれて、でも過去とかそれを乗り越えるのを書くのは難しくて。 ずっと「日常に挑め!」といわれているような気分になっていました! 確かに、今私らしい文章を書けといわれたら書く文章ですが、だからこそ重くて、だからこそ書いていてとても達成感があります* 本当はもっとマイナーなスポーツにしようと思ったんですが、思いつかなくてもうサッカーでいっか! と思ったら、観戦ツアーとか旅行会社とか書いているうちに思いついてきて。 本当は過程も結末も何も考えてなかったのに、ここまでできるのは自分で本当に感動してます* 右手のひとさし指は痛いですが…… Eの章が途中までできているので、完成して公開したかったのですが、機種変したため、データが送れなくてこちらを先に公開します! うーん、気がついたら夕方(笑) 他の章はもっといろいろ考えてあるのに、時間かかりそうだなとか、まだ公開できなさそうだなと思ってしまいますが、とっても楽しかったです* 創作開始記念企画は、挑戦しようと決めているので、挑戦しまくった文章になりました* 他の章も時間はかかりますが、待っていていただければ嬉しいです* |