誰も知らないつの物語


半透明人間


 その人を認識したのは、過去最高気温をたたき出しそうな夏が始まる予感がする頃だった。

 教室は人の出入りが少なかった。テスト期間ということもあり、人は少なかった。たまたま空き教室になっていた場所は、中途半端に時間に縛り付けられた僕らにとっては必要な場所だった。テストも始まらないので、詰めて座る必要はない。長テーブルと端にまばらに人が座っている。そんな空いている教室でも、僕がその人の前に座ったのは、通路側がよかっただけの理由からで。

 テスト勉強のためにテキストを広げ始めた僕は、あるものがないことに気づいた。


「あの……」


 しかたなく後ろを振り返った。この暑い中マスクをした彼女がいた。声をかけた僕を目だけが不思議そうに見ている。


「鉛筆忘れちゃったので貸してくれませんか」


 不思議そうな視線を投げかけていた目が少し三日月の形になった。この子笑ってる……? 嫌な感じではなかった。少し恥ずかしさがなくなった。彼女は無言でとがった芯の鉛筆を2本と消しゴムを貸してくれた。


「消しゴム持ってるんですか?」


 僕が確認すると、彼女は三日月の形の目のまま頷く。動作が小動物に似ている。そこまで考えたところで、同じクラスだったことを思い出した。その記憶が「口裂け女」という噂があることも釣りあげてきた。


「風邪ひいてるの?」


 そこで彼女はちょこんと首を傾げて、首を振った。マスクのことを聞いてみようかと思ったけれど、初めての会話だったので、止めた。代わりに鞄からガムを取り出す。


「ミント嫌い?」


 彼女はまた首を小さく振る。


「じゃあこれ、お礼に」


 ガムを数個渡すと、彼女は三日月の形の目をさらに細めた。それ以上返事はなさそうだったので、僕は前を向いて、テキストと単位のために向き合った。


 「口裂け女」なんてあだ名があるから怖い人かと勝手に思っていたけれど、そんなことはなく、かわいらしい人だった。僕らはその日は他に何も会話することなく、教室を出た。




 僕らが再会したのは、夏休みの自動車教習所だった。だいたい大学一年目で免許を取る人が多いので、知り合いがいなかったから僕らは会ったら話す仲になっていた。


「仮免取れた?」

「もうちょっとかな」


 マスク越しでくぐもって聞こえるけれど、彼女は声もかわいらしい。


「今日も暑いね」

「うん、暑い」

「何でマスクしてるか聞いてもいい?」


 彼女は目をまん丸にして僕を見ていたけれど、やがて頷いて話出した。


 そこからは、僕にも少し身に覚えがある話が始まった。他の人よりもよく笑ってしまうこと。誤解されること。周りからそのことで陰口を言われること。それで顔が見えないようにマスクをしていること。

 話を聴き終わって、僕は本心の温度で言った。


「それ、分かるよ。僕にも似たようなことがあるんだ。まだ時間があるから聞いてくれる?」


 彼女が頷くのを見て、僕は話し出した。



 昔から僕は、周りの人とは仲良くしたかった。笑顔でいてくれた方が僕も嬉しいし、そのためなら少し馬鹿にされてもいいし、人と合わせてもよかった。

 それは中学生の頃だったか、高校生の頃だったか。頭の奥がぼやける感覚を1日に何度か感じるようになってきた。頭が重いような、頭が一部抜けていくようなそんな感覚だった。

 身体は元気であったし、特に悩みもなかったから、僕はそれをそのままにしておいた。だけれど、そうしているうちに、それが身体まで及ぶようになってきた。ここにいるんだけれど、自分がどこか足りない感じ。自分が透明になっていく感じといえば理解しやすいだろうか。

 そんな感覚を人と会っている時は感じるようになってきた。でもやっぱり身体は元気だし、悩みがあるわけじゃない。だけれど、こうしているだけじゃいけない気がする。このままどんどん自分が消えていってしまいそうな感じがすること。でも、どうしたらいいか思いつかないこと。


 軽く話すつもりだったけれど、初めて人に話すからか、久しぶりに自分の本心を打ち明けるからか、段々重さを纏っていった。



「今は、どんな感じ?」


 彼女は、僕の話を聴き終わると、真っ先にそう尋ねた。


「……何だか、身体が熱い感じかな」


 何も考えずに出た言葉は、脳の経路を碌に通ってないように思えるけれど、口に出してからそれが正に感じていることだと思った。気温の暑さとは違う。内にあるものが体温をもって、動悸が速まったようなそんな感じ。


「それを続けていけばいいんじゃない?」

「君も気にせず笑えばいいんじゃない? マスク取った方が絶対かわいいし」


 口説き言葉ではなく本心だったのだが、彼女は照れたように俯いた。



 それから、僕らが会うのは教習所だけではなくなり、夏が終わりに向かうにつれて、彼女の傍にいる口裂け女と僕の中にいる透明人間は少しずつ消えていった。まあ、消えるっていう表現も正しい感じはしないんだけれど。完全になくなるわけではないし。

 彼女の手を繋ぐと、僕の中の透明人間はいてもいいしいなくてもいいと思うことができるようになっていた。

 彼女は笑うとやっぱりかわいかったので、僕はそう感じる度に言葉で仕草で、段々行動でそのことを伝えるようになった。


 後期が始まる頃には、彼女はマスクを取って学校に行くようになった。口裂け女とは違う噂が僕らを囲むようになったけれど、それも手を繋げばどうでもよかった。



後書き

読んでいただきありがとうございました!!

創作開始14周年記念企画、ここまでかかってしまいましたが……
それでも、ここまでで書いてよかったと思う文章ができました。

この文章は、思いついてから一番最後に書こうと決めていましたが、今、なぜ一番最後になったのか理由を痛感しています。


この文章を読んでくださった方には、ぜひ前の『口裂け少女』も読んでくれると話がさらに繋がります。
逆に『口裂け少女』を読んでくださった方はここまで読んでいただけらと……


久しぶりに、書き終わって続編を書きたいと思う文章でした。

創作開始15周年は13周年にやった『異類転生』を複数の人物でやりたいなと思っています。
次回こそ早く準備して、2/19にあげたいな……
(まだ何曜日か見ていないくせになんか言ってる(笑))


最後になりましたが、サイトやTwitterを通して私を見守っていてくださった方々に心から感謝を*
これからも私は日常に振り回されながらも書き続けていきます。
どんなに日常に振り回されても、また必ず戻ってきます。





- ナノ -