short novel

傾倒




「……結果は見えているんだろう」


 『真実を知るための代償は払えるのか』という疑問を彼女は省いた。彼の行動は、何よりも覚悟を物語っているのだから。彼女は目を伏せたまま答える。


「私を殺せば、未来は変わるかもしれない。条件は変わるのだから」

「その選択が最善ならば、とっくに過去に起こっている。愚問だな。そうしたところであんたが守ってきた人々がさらに犠牲になるだけだ」

「それでも、今のままだと両国とも滅ぶわ」


 彼女がその後に言葉を紡ぐ前に、彼の笑う息の音が響いた。彼女は信じられない気持ちで視線を上げてみても、彼は目を伏せていたが確かに笑っていた。


「今のままだとな。出会うはずのなかった俺たちが出会ったことで、条件は変わった。未来は、変えられる」

「……あなたは、あなたが止めたいと希求して止まない戦争の扇動者を庇うの?」

「まさか。あんたは扇動者なんかじゃない。犠牲者だ。神を長年務めてきたのにそんなことも分からないのか?」

「……出会って間もない相手をよく信じられるわね」

「あんたが信じるのを恐れているだけだろう?言葉は行動よりは無力だ。ここまでこの場所を守ってきた君を信じる」


 彼が視線を彼女の目に戻すと、蝋燭の灯りを最大限に輝かせている瞳に出会った。



 そこで2人は、この場では自分たちも神でも悪魔でもないことを、神にも悪魔にもならなくていいことを知らされた。



「この状況で悪魔にその選択をするあなたを尊敬するわ」


 彼女が皮肉をこめて言うと、彼はまた微笑した。


「自分は信じられないくせに」

「あなたは代償を十分払った。私は神ではないし誰かの願いを叶えるために生まれてきたなんて思ってもいないわ。
でも、あなたの願いを叶えるために私も代償を払うわ」

「まだ儀式ぶるのかよ」

「あら、嫌?私が『神の代弁者』として今もここまで残っていたのだから、今日の奇跡が起こったのよ」

「『神の代弁者』は予想の範囲内って言ってたけどな」

「彼女の予想の範囲内は、“戦争の相手国が『神の代弁者』に手をかける”ってことまで」

「ふーん」


 彼との距離が、いつの間にかずいぶん近づいていた。沈黙によってそのことに彼女は初めて気がついた。


「じゃあ、『神の代弁者』の言葉を借りるなら、これも予想通りなんだな」


 いきなり彼女の目の前が黒一色になって、体全体が何かに包まれる。


 彼に抱擁されているのだなあと、彼女はずいぶん長い時間をかけて理解した。



 確かに、“手をかけている”。

 予想以外なのに、満更でもないと思っている。状況を理解しても、安心している。驚いているはずなのに、喜びさえ感じている。



「……喜ぶのはまだ早いと思うけれど」


 彼女が予想できる一番確率の高い答えを口にすると、彼は無邪気に無防備に笑い声を上げた。


「あんたが遅すぎる」

「何それ。そこまで言うなら計画はあるのでしょう?」

「計画?立てる必要あるのか?もう手段は今までとは真逆の意味で選ぶ必要がない。一番手っ取り早いので実行すればいい。お望みならこの国の光を陰にしてしまってもいい」


 彼はこの小国を乗っ取れるとさえ言い切っている。2人なら。確かに、不可能ではない。賢明な彼女は悟る。



 しかし彼がここまで言い切ることができるのは、何故なのか。

 彼女が彼とここまで自分を異質に感じてしまうのは、彼が世界を知りすぎているからなのか。それとも彼女がこれまで世界を知ったようなふりをしてきてしまったからなのか。それともどちらもからなのか。



 世界が数分でまるで違う物になってしまったことに驚いている反面、今までの苦労があまりにも無駄に感じて、彼女は絶望の最も近くで呆然としていた。

 彼女はこれまで、自分がどれほど夢や希望と無縁だったのかを知った。

 誰もが幸福になる最も可能性の高い選択肢をずっと選択してきたはずなのに、いつの間にここまで幸福と遠ざかってしまったのだろう。



 それを知っていても、そうすることしかできない自分がいる。そして、今までそうすることしかできなかったと知っている自分もいる。



「大丈夫。俺たちは今まで最善を尽くしてきたよ」



 彼女が何も言葉を発していないのにこの刹那にこの言葉を言えるのは彼も同じだからか、それとも違う何かの感情からか彼女は考えようとしたができなかった。

 それより前に、胸が一杯になってどうでもよくなっていた。それは彼女にとっては久しぶりの感情すぎて、名前を見つけることはできなかった。


「……うん」


 彼女は泣いていることが分からないように、呼吸するように伝えた。



 だが彼がそっと彼女の頭を撫でる手の優しさから本当のことを知る。



「とりあえずさ、先のことは分からなくても今日の俺たちのことは祝ってもいいんじゃないか」


 彼の言うことは尤もで、彼女は彼の背に腕を伸ばすことで同意を示す。



 彼に出会ってから、彼女はこれまで縛られていたものから解放されて、違うものに傾倒していた。だがそれは、彼女は自分が幸福だと感じる道を選択したことと変わりはなかった。



「じゃあ、メリークリスマス」



 そう言われたことで、彼女はやっと今日がクリスマスだということを思い出した。それから、いかに自分がこうして誰かにそう言ってほしかったのか気づいてしまった。






 先人は、自分が学んだものの先にまだ学んだことのないものがあると信じるからこそ、過去を知ろうとする。

 人は自分が生きてきた先に、まだ経験したことのないものがあると信じてやまないから生きようとする。



 彼女はそう理解した。というよりは、それはそうあってほしいという願いに近かった。



 たとえ誰も望まないような運命がこの先待ち受けていたとしても、今日この瞬間を分かち合える人と出会ったことに自分が感謝していることは運命にも否定させない。





「メリークリスマス」



 どこかの神や聖人にではなく、目の前の彼女にとってかけがえのない人へ向かって、決意をこめて彼女は祝いの言葉を口にした。




 彼らはこの先も陰として生きることを選んだが、この日を境に選択を変えるようになり、最も幸福に近いところにいた。


 そのうちに、彼らは互いの存在が唯一無二ということに気づき、それを渇望するようになる。


 彼には彼女を。彼女には彼を。


 彼らがその真実に気づくのは、これよりもう少し先のこととなる。






 後にこの地は、かつて『神の代弁者』と呼ばれた者が予言したとおり、輝かしい未来を迎え、さらに陰の存在によって光を増していったという。



傾倒
未来を変えるために今を変える覚悟はあるか




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