薄紅姫 太陽が闇に完全に喰われるその刹那まで、少女は待っていた。 「時間だ」 黒いフードを目深にかぶった一人が少女に近づき、低い声で脅すように告げた。 やはり、彼は間に合わなかったか。少女は無表情のまま闇が全てを飲み込むのを見届けていた。元々、期待などしていなかった。いや、期待してはいけなかった。主は臣の身を守るのが務めであるのだから。 「約束通りついてきてもらおうか」 別のフードをかぶった男が下卑た笑い声をあげて、少女の両手の自由を奪っているかせの先をつかむ。少女は衝動に駆られて、気がついたら天に向かって笑い声をあげた。 いつの間にか、私は期待していたのだろうか。誰かが助けに来てくれると。しかもその相手が彼だと。呆れを通り越して空しく、さらにそれさえも通り越して滑稽だった。 周りのフードのほとんどは身構えるように揺れたが、近くに来た男だけはより笑い声を大きくしただけだった。 「自分の状況が分かってんのか、姫サマよぉ。敵の陣地にたった一人なんだぜ。しかも武器もない上に、両手も満足に動かせない」 男がべらべらと時間を稼いでいるうちに、少女は周りの確認をする。 敵は十数人。一人でこの状態で倒せる数ではない。どれも夜の闇で黒く見えるがフードを目深にかぶっている。男がご丁寧に説明してくれたこの状態で倒せる数ではない。それでも、答えは何も変わらない。 だから好都合だ。相手の表情も目も見なくてすむなんて。 少女は顔を動かさないで確認すると、時間をかせいでいる男の話に耳を傾けた。 「それに約束は破られた。お前さんの命はもうないんだぜ。その前にいろいろと楽しませてもらうけれどなぁ。ヒャッハッハ」 「約束?」 少女の声は男には聞こえていないらしい。男はまだ笑い続けている。 「怖すぎて悲鳴も上げられないか?えっ?」 「黙れ」 「あっ?聞こえねえなぁ」 「『黙れ』と言ったのよ!」 少女の大声と共に、男の身体が吹っ飛ぶ。地面に倒れてから、男が立ち上がることはなかった。 「約束なんて、本当に信じていたの?救いようのない程愚かね」 「無駄な抵抗はやめろ!」 いち早く我に返った1人が叫ぶ。その声に、何人かが少女に近づこうとする。 「じゃあやめないわ」 少女は小声でつぶやくと、近くの1人に向かって走る。相手はあっけにとられて動けないまま、少女に腹部に回し蹴りを放たれた。相手の体がゆっくりと傾く。 「我が臣は、皆聡明よ。相手を滅ぼす機会は決して逃さないわ」 「では相手に殺されそうになっているお前は何なんだ」 そう言った黒い男に、少女はとび蹴りで答えた。 私?私は最初から我が祖国の駒にすぎない。『姫』なんて名前がついているのも敵の目を欺くそれだけのためだ。 少女の内心の叫びが聞こえる頃には、相手の体は少女の足の下とっくに地に伏していた。 だから、もう何もいらない。私の名前も感情も痛みも想いも過去も何もいらないわ。これからのことなんて考えなくていい。私にはもう、何もないのだから。 少女はレースのついた薄紅色の丈の長いドレスを破り捨てた。少女が手を離すと、彼女の『薄紅姫』という名前と共に、風に流されてどこかへ消えた。それは役目を終えて理不尽になすすべもなく風に流される桜の花びらに見えた。 「何をしている!早く捕えよ!」 少し年老いた男の声に、周りの影がこたえる。剣の切っ先が月光に反射して煌めき、夜空に浮かぶ星のように少女の周りを囲った。 少女が覚悟を決めた時、この場の効果音として選んだようなピアノ和音が響き渡った。その後に軽やかな輪舞曲が続く。 まさか、そんな訳……。 少女は周りが敵だらけなのも忘れて、ピアノを弾いている人を探した。 「かまうな、その女を早く……何だ?」 男の意志に反して、足が勝手に動いて味方のはずの影の方へ走る。そのまま腕を振り下ろして近くの影に斬りかかった。周りでは同じような光景が繰り広げられている。 少女はその光景を見て、驚くどころか確信した。『彼だ』と。 ピアノの音をたどって、本人の姿を見る前に、少女は泣き崩れそうになった。だが、主なるもの臣に弱みを見せてはならない。……たとえその相手が少女の心を分かる才能の持ち主でも。 「何で来たの!敵が私に気を取られている間に、敵国を滅ぼすこともできたのに」 代わりに音のする方へ叫んだ。 「我が主を失ってしまうのに?」 ピアノを弾く手を止めることなく、彼は答える。ピアノの音にのって、歌うように聞こえた。 「そんなのどうでもいい!」 「どうでもよくありません!」 輪舞曲のリズムが、叩きつけるような不協和音に掻き消えた。それと共に、周りからいくつものうめき声の不協和音が響いた。少女は敵が全て倒れたことを確認することはなかった。彼はピアノで敵を……いや人を自由に操ることができる。その力で少女は何度もすでに救われていた。 「私がいなくても、我が国は何ともないわ」 「我が主がいなくては何の意味もありません」 「そんなことはないわ」 「全く……」 彼はためいきをつくと、黒鍵をいくつもつかった優しげなメロディーが流れた。それと共に、彼の姿を何かの光がぼんやりと照らす。彼がピアノを弾いている間は、彼のイメージに合わせた光が彼を包む。少女はそのことについて説明を聞いたことはなかったが、彼の才能が内側から出ているものだと思っていた。 「もっと近くに来て姿を見せてください」 少女はピアノの音よりも、彼の優しげな声に引き寄せられた。戦場に不釣り合いなピアノにゆっくりと近づく。 「怖かったでしょう」 「……別に、平気」 彼が優しいので、少女は決して言ってはならない言葉を言いそうになった。 『怖かった』などと言ってはならない。少女のために命を犠牲にした人々は数えきれないほどいるのだから。 彼らは誰かに助けを求めることも、孤独に怯えることも、恐怖で躊躇うことも、誰一人としてたった一瞬さえも許されていなかったはずだ。だから主は同じかそれ以上でなければならない。 彼はそんな少女にさらに優しげな声で聞いた。 「あいつらに何かされましたか」 「別に何も」 「ではこの手錠はなんです」 「これだけよ」 「それでは、その服はどうされたのですか」 「自分で破っただけ」 少女がピアノを弾いている彼の隣に立つと、彼はピアノから手を離した。 「何のために」 「聞くまでもないでしょう。戦うのに邪魔だったの」 「私を待っていることはできなかったのですか」 「約束の時間通りに来ない人を待つことはできなかった」 「私が約束を破ったことがありましたか」 「ついさっき」 彼はイスから勢いよく立ち上がった。 「何で、何であなたはいつも誰も信じてくれないのですか!」 「私が『姫』というだけで命を投げ出す人だからよ」 「私も信じられませんか」 「えぇ」 彼はまたピアノに手を伸ばしたが、鍵盤に触れる前に手を握りしめた。 「私があなたのために命を投げ出すのは、あなたが姫だからという理由だけだと本当に思っているのですか?」 「じゃあ何で、敵の陣地に一人で乗り込んでくるの?私に会う前に敵に見つかるとは思わなかったの?」 「私が見つかったところで、大人しくやられるとでも思っているのですか」 彼が右手の掌をそっと広げると、ピアノが彼の手の中に吸い込まれる。 「可能性はあるわ」 「あなたは私を信じてくれない上に、そんなことを言うのですね」 彼は心底呆れたようにため息をひとつついた。少女の態度は変わらなかった。 彼がこんなため息をつくのはよくあることで慣れていたということもあったかもしれないが、彼に悟らせないためには、自分の心さえもごまかさなくてはならない。……特にこんな無謀なことをされた時には。 そうしているうちに、少女は自分の心が分からなくなって何かに踊らされている操り人形の気分になってしまうのだった。 そんな時、少女は自分に問いかけてしまう。私は何のために生きればいいのかと。答えは言うまでもない。この国のためだ。そのための『姫』であり、そのための体だ。そう、ただそれだけのための。 「帰りましょう。敵がいつ異変に気づいてこちらに増援してもおかしくないのですから」 「またあなたが踊らせてあげればいいじゃない。あるいは遁走させてもいいわ」 少女が冷たく言うと、彼は少女の手をとった。その手は少女には冷たく感じた。それは彼の手が冷たいからか、あるいは自分の手が熱いからなのか少女には分からなかった。 「自分で歩けるわ」 少女は彼の手を振り払った。彼の表情は闇に溶けて分からないが、困惑はしてないだろう。 「……私の能力がいつまで通じるか分からないとは言わないのですね」 「ここまで来たのなら、敵を滅ぼしてもいいじゃない。絶好の機会よ」 「敵が我が国を恐れて近づかないのが一番ではありませんか?いつものあなたならそう言うはずです」 「そんなのいつまでも続くとは限らないでし ょ」 「今日は帰りましょう。お休みになられた方がいい」 「嫌よ。奇襲をしかけましょう」 「私たち二人で?」 「あなたが嫌なら私一人で行くわ」 「まさか。そんなことはさせません」 「じゃあ、何が言いたいのっ!」 暗闇で彼の表情が見えない。それが少女の不安を煽ったのかもしれない。気がつけば口から言葉が出ていて、少女は自分が何を言ったのかさえ分からなかった。 「今日は帰った方がいいです。見たところお疲れのようですし」 「大丈夫よ」 「御自分が不安定になられていることにまだ気づかないのですか」 「そんなのあなたの思い過ごしじゃないの。そんな甘いこと言ってられないわ」 彼は先ほど少女に振り払われたのに、また手をとった。少女はまた振り払おうとしたが、今度は彼がそうさせなかった。 「あなたには甘いくらいがちょうどいい」 「そのせいでいつか私たちが危険にさらされても?」 「そんなことあなたがさせない。何よりも私がさせない」 「そんなの、いつまで続くか分からないじゃない!」 「……だから今すぐに終わらせてしまおうと?いつか同盟を結んで平和を得るかもしれないのに?」 「これ以上、私のせいで何かが犠牲になるのは耐えられない」 彼は冷静だった。少女が初めて言った本音にも少しも動揺しなかった。それは彼には、最初から分かっていたからかもしれない。 「余計同盟を結ぶことを考えなくてはなりませんね」 「なぜここまで同盟が結べなかったのか思い出したら、そんなこと考えられないわ。それに、あなたがここでやったことを相手は許すことはしないでしょう」 「あなたも許してないでしょう?」 「当然。こんな危険なこと二度としないで」 「人の事を言えますか」 「私の事なんてどうだっていい」 「とりあえず、帰りましょう。どちらにしろ戦になるのですから」 「ここで奇襲すれば、少しは犠牲が減らせるかもしれない」 「いい加減にしてください!主を失えば、隙ができます。そうなれば、その隙にのせいで敗北するかもしれない」 「そんなの可能性の話よ」 「私たちの奇襲が成功するかも可能性の話です」 「じゃあ、私はどうすればいいの?」 少女には自分の本心そのものだったはずのその言葉さえ、自分の事しか考えていないような言葉に聞こえた。少女が泣き崩れる前に、彼はその体を抱えた。 「それでもあなたが犠牲になれば犠牲になるものは増えます。あなたがいなくなればあなたができることもなくなるのですから」 彼は少女に抵抗されながらも歩き出した。少女は抵抗していたが、それが自由のない両手のままだと意味のないことと分かると、叫んだ。 「誰だってそれは同じはずでしょ?臣だからとって、死んでもいいことにはならないわ!」 「いつもあなたはそうだ。少しは自分がいなくなったらどうなるか考えましたか? 事実、約束が守れなかったのはなぜだと思います?あなたが消えたことで、将軍が動けなくなったからです。だから私が一人で来たというのに、あなたときたら……」 彼はそこで言葉を切って、暗闇の中の少女を見つめた。 「勝手に敵国に乗り込んで、案の定人質にされて。そこで反省して大人しくしていればいいのに、敵に抵抗して……。 自分から死ににいくなんて、いい加減にしてほしいですね」 それ以上少女は何も言い返さなかった。彼が歩く度に僅かに自分の体が意志に反して揺れるのにも抵抗しなかった。 「もし同盟を結ぶことができず、あるいは同盟を敵が守らなかったら、その時は私だけで全て片付けます。約束します。 だからあなたも約束してください。このようなことは二度としないと」 「あなたは約束を守らないじゃない。それに流れ者のあなたにそこまでやってもらうわけにはいかない」 「今更何を気にしているのですか。だいたいあなたは私を流れ者だから巻き込みたくないんじゃなくて、誰も巻き込みたくないだけでしょう」 「……あなたの払う犠牲はどうするの?」 「これから無謀なことをしてあなたを失うより も、遥かに安い代償です」 『やっぱり、私に甘い』。少女は心の中でつぶやいただけで口には出さなかった。 「あなたが約束しなければ、致命的な犠牲を出すまで私は動きませんよ」 「そんなのずるい!」 「それくらいの覚悟と受け取ってほしいですね」 「……約束するわ」 少女は答えてから唇をかみしめた。涙さえ流さなければ、この暗闇で表情が分かるはずもないと高を括った。 「……さすが薄紅姫様は聡明ですね」 皮肉のつもりなのか、慰めのつもりなのか、二度と呼ばれることのないと覚悟した名前で少女は呼ばれた。 『頑張りましたね』という彼の声には答えなかったが、少女はそれを聞いてやっと安堵してそっと目を閉じた。 完全ver. 読んでくださりありがとうございました!! prev/next |