short novel

紫妃




「今宵もそなたか」


 肩からおちて普通より長くなっているそでで爪まで隠された手が口元を覆って女は言った。袖の間から覗いている爪は、長く針のように細く鋭く、目と髪と同じ深い紫色に彩られている。


「いい加減に毎日呼び出すのは止めて欲しいものだが」


 忌々しそうに、しかし甘くとろけるような声音で言いながら、女は足元の複雑な円を見下した。



 元の形が分からないほど乱雑であっても、女の目から見ても間違いは発見できない。その円の中央、女が浮いている下には丁寧な字で彼女の名前が書かれていた。



 ”紫妃(しひ)”。それが彼女の名前だった。



「毎晩妖でも高位の力を持つ私を呼び出すほどの力を持ちながら、私と話すためだけに呼び出すとは力に溺れるよりもつまらぬものよ」



 そして紫妃は人間ではない。異世界に住む妖と呼ばれるもので、その中でも特に力が強いものだった。


 妖を呼び出すには紫妃の足元にあるような円を毎回描かなくてはならないのだが、紫妃ほどの力を持つものだと丸一日は費やさなければならない。時間だけでなく体力や精神にも相当負担がかかる。



 しかも危険なのは召喚だけではない。人間界にいる下級の妖は、夜の間は姿を現し力のあるものを食らおうとする。人間界では「妖怪」や「幽霊」と呼ばれているようだが、呼び方で特性は変わらない。


 紫妃は人間界にいるだけで、そういったものをおびき寄せてしまう危うさも持っている。



 それをこの男は毎日繰り返している。紫妃はそこでやっと、すっかり顔馴染みになっている呼び出した相手である男に目を向けた。



 そうしている間にも、男の後ろに青白い半透明の妖がゆっくりと何体も迫っていた。


 紫妃は追い払う気はなかった。呼び主であるこの男がこの世界から消えれば、紫妃を人間界に縛るものはなくなる。

 それほど愚かで無力な人間なら消えてしまえばいい。


 しかし紫妃がそう思っても、妖は男にそれ以上近づく前に炎が燃えるような音がして消えた。今日もいつもと変わらず強力な結界を張ったようだ。


 男は時が止まっているかと思うほど変わっていなかった。髪はぼさぼさで、やつれた顔をして、浅葱色の服を着ている。着物の色は時々変わるが、何日前と何も変わらない。



 特に特徴がないことも変わっていなかった。強いて言えば、日に日に紫妃に仕えている先ほどのような下級の妖と姿が似てきているとでも言おうか。



 そんなことを紫妃が思っていると、やっと男が口を開いた。





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