夜凪の続編 あの方は、私に秘密にしていることがあるに違いありません。両家のお見合いから数週間後、お見合い相手のあの方は、いつも穏やかで全くあの方がどのような人間なのかというものが見えないのです。人間味が全く無いといってもいいかもしれません。ある意味機械のように何を言っても穏やかに微笑んでいるだけなのです。 しかしそれは私と結婚したいと思っているとは違う気がしますし、家のためと諦めているという感じでもありません。 幼少期より大人の求められた自分を演じるために人を観察していたことから、ある程度人の感情がよめると思っていた私にはこれが初めての経験でした。どうしたらいいのかわからないのです。男性というものは、皆行動に表れて単純だと思っておりましたが、さすが私の家が薦める男性。家柄だけでなく、中身も伴っているということでしょうか。 しかし、私にはそうは思えません。穏やかな裏に隠れた時折見せる憂いの正体を私は知りたいのです。それを知らなければ、いくら家のためとはいえ、結婚をすすめられそうにはありません。 他に想う人がいるのかと人を雇って調査をしましたが、私の他にお付き合いをしている人はいないようです。過去に何かあったかと調べても、お付き合いをした人はいないようです。大学時代は書道部に所属していたとお聞きしました。その中に片思いの相手がいたのかもしれませんが、それは想像の域を出ないのです。 不貞を断定する事実が何もないのですから、私もこのご縁をお断りすることはできません。そもそも、両家が決めたことですから、私達のように家柄を尊重する者としてはたとえ今時ではなくても断れないのです。 お見合いの返事のメールが遅かったことも気になりますが、そこは気にしてはいけないのかもしれません。 ですので、私はさらに曖昧な返事をしながら交際をすすめるしかありません。 先日の三度目のデートで私達はまた京都の町を歩いておりました。定番となりつつある行きつけの茶屋に寄って、家業のことを話して、今日も友人の延長線のような会話が終わるのかと思っておりました。しかし飲んでいる抹茶はどんんどん苦味を増していくように思います。 このままいつものように穏やかな時を過ごしてもよかったのですが、私はそろそろ自分の疑問を解消するべきだと思ったのです。 こうなったら直接聞くしかありません。 「あの、随分と女性と接するのに慣れているようですが、以前お付き合いされたことがあるのですか?」 「そんな風にみえるのかい? そんなことは一度もないんだけれどな。そう見えるとしたら、家の教えの一つだろうね」 冗談として流してもいいかのように軽く答えてくれました。これなら冗談としてもう少し話を続けられるかもしれません。 「君のような人でも、気になるのだね」 次の手をうつ前に、貴方の言葉に何も言えなくなってしまいました。 そうです。表面上でも穏やかであれば私達の関係はそれでいいのではありませんか。あの方の言葉は、湯呑みについた口紅の跡が心にそのまま染みついたようでした。 「不安にさせたようで悪かったね。君のような人は丁重に扱いたいのだよ。不安が晴れてからでいいけれど、結納の話はすすめていいのかい」 「え、えぇ」 私の肯定とも否定とも判別できない音は、四度目のデートという形になりました。 家に帰ってからも私はあの方の言葉を反芻しておりました。何故そこまで固執してしまうのか、そもそもこのような感情があったということに私自身がとても驚いておりました。 互いに家のためが一番なのですから、他に相手がいようがいまいが互いの家に迷惑をかけなければどちらでもいいではありませんか。何故ここまで思い悩んでしまうのか、答えが出せないまま、時間だけが過ぎていきます。私は最も近くにいる自分のことがよく分からなくなっていました。 四度目のデートになっても、私はなるべく平静を装っていましたが、それはあの方にとっても不自然に見えるようでした。それは微かであるはずなのに、あの方を決心させるには十分なようでした。 「この前のことで不安にさせたみたいだから、迷ったんだけれど君に本当のことを話すよ。これを聞いて婚約を解消してくれても構わない」 私は、その言葉を聞いて、形だけでも姿勢を正しました。何だか前回のデートから全てが不明瞭なままですが、それを正すための鍵になるはずなのですから。一言一句違えず覚えておかなくては。 「私は確かに女性と付き合ったことはありません。ですが、大学時代に同じ部活の先輩に片思いしていたことがあります。先輩にはお付き合いしている人がいたので、告白したこともありません。 ですが、その方に会った時に、今まで恐れていた感情が全て恐れなくていいものになったのです。それから全ての感情の存在を尊重しようと思うようになったのです。 ですから、私は、今も家業が一番ですが、感情に振り回されても家業を大事にできることこそ尊重したいのです。当然貴方の家のことも尊敬しておりますし、家業を大事にする貴方のことも尊敬しております。貴方を含めて貴方の家のことを尊重したいのです」 それを聞いて、私の心中の曇天が晴れ、世界が色づきました。今まで見たこともない程鮮やかに。これが私が存在していた世界だったのだと漸く気がついたのです。 「……話しにくいことをよく話してくださいました。私は、男性とお付き合いするということが初めてでして、不慣れなことばかりでとても戸惑っているのです。ですから、今の私も大事にしていいと言っていただけてよかったです」 それは確かに嘘偽りはないのですが、どこか真実とは遠い言葉なのです。 「今後とも、こんな私ですが、よろしくお願いいたします」 「こちらこそ、こんな私ですが、よろしくお願いいたします」 その後は、いつものように穏やかに時は進みました。 私は心が晴れた一方、晴れてしまったからこそ気づいてしまったこともありました。 あの方は確かに多くを話してくれましたが、最も大事なところを話さずにいました。書道部の先輩という女性を当時どれだけ好きだったか、そしてそれに侵されることなく私との将来を誓えるのか。 いえ、あの方はここまで誠意をもって話してくれたのですから、責めてはいけません。あれがあの方の現在の真実であることに何もかわりはないのですから。私達は家が一番大事なのではありませんか。 見た目だけでも穏やかな交際とやらは続けられるのです。少なくとも今は。そもそも、表面上だけでも穏やかな生活とは、私が一番望んでいたことではありませんか。しかし、私の視界は、やはりあの日からやけに紅が鮮やかなのです。それは、飲みなれないマグカップに誰のものだか分からない女性の赤い口紅の跡が微かにしかし確かについていることにも似ておりました。 疑っていた心はどこかへ消えたというよりは、いつか来るその時のために、現在の私との間に帳をおろすのです。それは、ただ単に、私という人間を保つためのものだったのでしょう。なるほど、私にもこのような感情があるとは貴方に言われるまで気付きませんでした。 私の知らなかった私を教えてくれる方が人生の伴侶なんて最高ではありませんか。 結納の話は、両家がいうよりも少し遅らせましたが、何事もなかったかのように進んでいきます。友人には羨ましいと言われますが、事実はきっと誰も想像できないものでしょう。未来も私が想像していない、帳の中のものではないということを願うしかありません。 私が思っていたよりも、貴方との将来も、私という人間も明るいのです。それが私にとって他に何も気にならないくらい大事なことになっておりました。 何よりも、貴方にも秘密があるのですから、私にも秘密の一つや二つあってもいいではありませんか。 |