私には、貴方に秘密にしていることがあります。ですがその秘密は、私の中だけでは抑えられないものになってしまいました。貴方に打ち明ける前に、ここに少し分けてみることにしました。墨汁はたくさん用意しました。これだけあれば全部書くのに足りるはずです。 では、はじまりから語りましょう。 幼い頃煌めいたもので溢れた楽しい世界は、十を少し越えた頃から歪みはじめてしまいました。自分の中にある、これまで知らない感情。嫉妬、憎悪、激高。私が聞いたことのあるどの言葉に置き換えようとしてもどれとも違うのです。それよりもさらに汚く、醜く、底が見えないほど暗く深い感情。私は何度もそれを捨てようとしましたが、困ったことにそれは、隙があれば逆に私を乗っ取ろうとするのです。時に絶対的な存在で私を支配しているといっても過言ではありませんでした。私は恐ろしかったのです。得体のしれない自分で制御できないものがいつの間にか存在していて、自分が自分でなくなってしまうような感覚。ある意味死よりも恐ろしいものでした。どこへ行ってもどこからともなくそれが追いかけてきて、自分の一番近くで常時首筋に刃物をつきつけている感じがしたのです。 私は、この感情と抗う術を考え試してきました。ある時は夜道を走り回り、またある時は勉学を延々と続け様々なことをやり、感情を制御しようとしました。ですが体が動かなくなれば、すぐにあの感情がやってきます。目を開けても閉じても悪夢という形でした。これは一生続く醒めない悪夢なのだと絶望して、何も喉を通らない日もありました。 私は抗う術の一環で、修行も考えてみました。ですが家業のため家を長く空けるわけにはいきません。修行する場所を調べる最中、サイトで滝を見ました。この近所に滝はありませんし、実際に行くことはできません。 ですが、その姿を見て、ふと思いついたのです。自分の力でもう一つ絶対的な存在を作れないだろうか。それが自分が恐れる感情と均衡、あるいは上回るほどの大きな力があれば恐れることはないのではないかと。 私は試行錯誤しながら瞑想を学びました。そこでイメージが重要であるということに気がつきました。修行のきっかけが滝ですから、水に関係するものがいいと思えば、私は大きな水溜まりを知っているではありませんか。 海。 ですが私のような者にはあの雄大な水面をイメージするのは無理がありました。私ができる範囲は、自分の両手にのるほどの器。それが限界でございました。その小さな器の中一杯に水が溜まっているのを想像しました。そしてその水面が凪いでいて穏やかで、何がこようとも変わらないことを想像しました。いくつか試してみたのですが、私では日中の明るい水面は合わないということがわかりました。ですので、星の光や町の灯もささない、月が照らす暗く静かな夜空を映しました。それは、夜凪と呼ばれる現象に似ていました。目指すのは気持ちを落ち着ければいつでもそのイメージができることです。 はじめは私が恐れているものが、何度もその凪いだ水面を脅かそうとしてきました。最初のうちは焦って嵐が起こりましたが、私のようなものが一度でうまくいくはずがないのです。つまり、これは練習。何度も何度も文字通り襲ってくる感情の行く手を阻まず、通り過ぎるまで静かに待つ。それは思ったよりも簡単でした。その感情が訪れても恐れなくなりました。その感情は段々と訪れる回数が減っていきました。遂には全く訪れなくなりました。 こうして私は、夜中走り回ることなく自分に無理のない安心な生活を手に入れたのです。 その成果もあり、私は念願の大学に進学することができました。短い期間とはいえ、ここでしかできない経験を積むため、新しいことに挑戦してみたい気分でした。あの感情がいつ更に力をつけて戻ってくるかもわかりませんでした。 私は、部活やサークルの宣伝が貼ってある掲示板を眺めながら考えました。瞑想と似ていて、集中して一人で取り組めるもの。そう、書道がいい。直筆の字のみで判断されてしまう世界も今後たくさんあるでしょう。字が美しく書ければさらに向上できるはず。 部室の門をたたけば、女性の声が返ってきてそこで貴方に出会ったのでした。 黒髪を束ね、顔を上げた姿は凛としていて本当に美しく、私は一瞬で目を奪われてしまいました。確かに今時というわけではないかもしれません。私は、いつしか家の決めた人と結婚することも分かっていました。それでも、心惹かれてしまったのです。これは、ある意味克服したはずのあの感情と同じくらい絶対的な力を持っていました。ですが、今度は何かやわらく煌めいていて、幼い頃の世界とどこか似ていて、私は到底抗おうなどと思わないのでした。 「体験していきますか?」 「あっ、えっ、はい」 「では、こちらにどうぞ。道具は持ってきていますか?」 私が見とれている間に、私の曖昧な返事は肯定と受け止められ、話は進んでいきます。気がつけば、私は墨で歪な掠れた字を書き、入部することになっていました。話も体験したことも全く覚えていませんが、あの美しい人の名前だけはよく覚えています。呟いてみる勇気はありませんが、頭の中で何度も私の全てに真鍮の鐘の音のように反響するのです。 私は、その日から毎日空いている時間も書道に打ち込みました。当然、上達したいからでもありました。その得体のしれない感情を弱めるためでもありました。ですが彼女のその姿が現れれば、弱まるどころか、私の感情や身体を全て支配してしまい、何も手につかなくなってしまうのでした。 私の内面も変化していきました。私の水面はもう以前の月明かりだけが照らす夜空の色と違います。やわらかなピンク色の水で溢れるほどに満たされ、やさしげに揺れていました。上空から日光も降り注ぎ、南国のようなあたたかさです。世間ではその色をパステルカラーというそうですね。 私はこの感情を必死に表に出さないようにしました。彼女に嫌われたくなかった、迷惑をかけたくなかったのです。私は、たまにその姿が見られるだけで十分だったのです。それができるだけ長く続いてほしい。できれば一生たまに見たいとおもったくらいで、そばにいてくれなくてもよかったのです。 何ヶ月か部室でその姿を見ているうちに、突然いつもと違う事に気づいてしまいました。いつの間にか筆を持つその美しい指に、銀色の指輪が光っているではありませんか。しかも薬指に。 その日から、私の心の中にある水面は、これまでの夜空の色に戻ると思われました。ですがそれは違いました。今まで見たことのない明るい色になりました。彼女に教えてもらったパステルカラーの全てが混ざっていて、それぞれ調和しているのです。それは私が心を配らなくても、不思議なことにいつも凪いでいて、見る度幸せになります。ですがなくそうとすれば溢れるくらい揺れて抗われてしまうのです。私は、どうすればいいか分からなくなってしまい、貴方に打ち明けることが唯一の解決策だと思ったのです。 ここまで書いてみましたが、やはりこの告白は誰も幸せにしませんね。私が家業にうちこみ、貴方のことを大切に思えば、きっとこの感情はなくなるはずです。いや、なくさなくてもいいのかもしれません。なくせないかもしれません。 貴方という存在がありながら、この感情のために生きていくわけにはいきません。ですが、せめて、たまに、たまにでいいのです。この感情を夢に見ることだけは許してください。 ここまで気づいて筆を止める。いや、これは、私だけしか知らぬこと。私だけが許せばいいことだったのだ。そのことに気づいてしまえば、もう水面は溢れそうになるほどは揺れませんでした。 私は明けていく世界を眺めながら、返信がこんな時間になってしまったことの謝罪にくるんでメッセージを送りました。今は偽りでしかないことを告白しても、水面はあの色のまま、凪いだままなのでした。 |