雑踏の中に乾燥した砂の匂いが混ざる。ゴミに慣れてしまったこの鼻にも鮮明に感じるのは喜ばしいことに思えた。文明が一度廃れてしまったこのご時世では新しくない話。賭けに負け3日前侮辱された師の名誉を挽回するため、薄汚れた布を頭からかぶった青年が一人、スクラップだらけの山を目指して歩いていた。 「新入りだ。新入りだ、新入りだ」 青年と同じようにフードを被っているのに、よく理解できるものだ。鼻が腐りそうな臭いの中でもここの住人の鼻は他よりも正確なのかもしれない。老若男女いろんな声を発しながら遠目に青年を見ていた。全てを無視して青年は歩き続ける。目指す場所がようやく見えてきた。 「よう。新入りか」 目当ての人物の声がして、青年は顔を上げた。相手はスクラップの山の上で曇天を背に青年を見下ろしていた。その中年の男は何もかぶらず無精髭も伸びたままの髪も晒していた。今日も噂通りの風貌だ。 「俺は新入りとして来ていないんだが」 「ほう」 辺りが先程とは違う意味で騒ぎ出す。その時風が舞って、青年のフードを揺らした。青年の表情までは見えないが、耳の群青の宝石のついたピアスが一瞬煌めいた。 「ああ、この前の夜空の信者の件か。よく一人で来たな」 喧騒を手で制し、男は立ち上がった。下もろくに見ず、形も様々なスクラップの中軽捷な身のこなしで降りてくる。 「言いがかりをつけられるようなことはしていないな。銀貨の種類を見定めるのも力量のうちだぞ坊主。目を凝らして見てるのは夜だけか」 腰のナイフに手をやろうとして青年は手を止める。これは挑発だ。のっては師の二の舞いになるだけだ。 「それとも異教徒同士の争いがおきたときの決まりを知らない世間知らずか。だから他の奴らは来なかったんだろう」 青年は他の人々が決まりを守っているだけだということは分かっていたが、それは恐れているだけではないかとも思っていた。だから、強くは言わず一人でここまで来たのだ。 「いいぞ、坊主。何を望む」 気がつけば男は青年の前に立っていた。左手の手の甲を右で押さえている。既に準備は整っているということか。 「師への侮辱の撤回。それから夜空の信者への冒涜の撤回もだ」 「随分安いな。いいのか? 俺が何を賭けるか分からんぞ」 文明の発達により、一度滅亡した人類の新たな交渉方法。それは原始的とも思えるかもしれない。 「銀貨の表と裏どちらにする?」 もめたときの常套句。しかしその言葉には裏がある。師はどちらも裏の絵柄の銀貨によって破れたのだから。 「裏だ」 たとえどちらも裏の絵柄の銀貨しか持っていない場合でも、通常の銀貨だとしても裏が出る確率のほうが高い。 「じゃあ、俺は表で」 男の表情は青年の選択を嘲笑しているのか、それともはったりなのか青年には図れなかった。 その時銃声が青年の耳を貫いた。スクラップの山の一部が鋭く跳ねる。ごみの一つが空中で木っ端微塵に飛散した。 「動くな!」 群衆のパニックの前に、低い男の叱声が響く。声の方を向けば、黒い軍服に黒い帽子を目深にかぶった男が一人現れた。天に向かって銃を構えている。その後ろからは同じ服を着た20人の集団が隊列をつくって行進してくる。 「軍の犬が何のようだ」 「恍けるな! 貴様は何年も前から賞金首にかけられている!」 「久しぶりすぎて忘れていたな。いくらになったんだ? こいつらにいくらか払ってやってくれねえか」 男の飄々とした言動にまた近くのスクラップが鋭く跳ねる。 「今度そんな口を聞いたら、体のどこかに穴が開くことになる」 「お前に空けられる穴なんてたかがしれてるだろうよ」 また男の近くで銃声がしても、男は一向に態度を変える気はなかった。 「ちょうどいい。賭けをしようとしていたんだ。先にはじめよう。俺の手の下に銀貨がある。この銀貨の上の面が裏と表どちらか当ててみろ」 「それが何の得になる?」 「当てられたらおとなしく捕まってやるさ。でも外れた場合、お前らはいろんなものを失うだろうな。まさか、俺がなんでそんな高い懸賞金かけられているか知らないわけじゃああるまい。こんな少人数から逃げるのなんて朝飯前だ」 銃を撃っていた軍人は構わず男に銃を向けたままだった。青年や群衆には予想もつかないが、口先だけでも男には後ろの軍人数人をたじろかせるだけの力はあるようだ。しかし男の様子を見ても、先頭の軍人は全く態度を変えない。態度を変えないのは男も同じだった。さらに無精髭の生えた口角を上げていく。 「それとも、怖いのか?」 それはありふれた安い挑発であったが、高慢で予想とは違う展開になっている相手にはよく効くようだった。 「何を恐れることがある。いいだろう」 「表と裏どちらにする?」 「裏だ」 先を越されたことなど頭から抜けて、青年は同じ選択をした軍人の結末を固唾を飲んで見守っていた。 「俺は表だ」 男はそう言うと、ゆっくりと銀貨を隠していた手を避ける。そして近くの群衆に見せた。 「表だ」 「嘘だ」 軍人の様子に、隣の群衆にも見せるが答えは同じ。そして近くの青年に銀貨を見せる。 「表だ」 「嘘だ」 やはり軍人の男の答えも変わらない。男は驚いた様子もなく、青年のフードを取る。 「それはこの方の言葉でもか?」 青日光を浴びて煌めく金髪と、ピアスの色にも衰えないくらい深い碧眼の瞳の整った顔立ちが晒される。それは滅亡した王族の姿に酷似していた。 「貴方は……」 軍人の男が何か言うよりも、青年が逃げるよりも早く、煙幕が辺りを白く覆う。目の前にいたはずの男は消えていて、何人かのうめき声が聞こえた。 煙幕が少しずつ消える頃、軍服の男が全て地に伏している様子が煙の中から現れた。皆意識を失っているように動かない。 「さて、こんなものかな」 先程までいなかった男が元の位置に戻っていて、両手にはたくさんの銃や弾倉、ナイフをぶら下げていた。どのポケットも随分膨らんでいる。 「……お前は、何者なんだ?」 「しがない賞金首さ。そんなきれいな顔をしているお前こそ何でここにいるんだ?」 青年はようやく自分がまだフードをかぶっていないことに気づいて深くかぶり直したが、遅かった。群衆に目を向ければ、皆青年に向かって跪き頭を垂れている。 「さて、賭けには俺が勝ったから、あいつらには協力してもらおう。お前も来い」 「……俺はまだ賭けに負けていない」 青年は軍服の男達を見た。群衆の姿を思い出した。師のことを思い出した。ようやくそう答えたのは、最後の抵抗だったかもしれない。 「先客がいたが、もう一度やってみるか?」 男が先程の銀貨をゆっくりと宙へ投げる。どちらも表面の女性の描かれた柄がゆっくりと回る。それは青年にとって、先客がいなければ自分がどんな結末を辿っていたか突きつけられた気分だった。 「……いいだろう。お前の賭けにのる」 「素直に負けを認めたか」 「いや、このまま逃げるよりはおもしろそうだからだ」 「師も師なら弟子も弟子といってやりたいところだったが止めておこう。お前みたいな奴はあそこには必要なんだろうからな」 男はずっと青年が背を向けていた空を狭めるビルを目で指した。青年は振り返ることはしなかった。風に吹かれるその横顔が、ずっと昔どこかで見たことのあるような気がしたのだ。 男は青年に向き直ると、銀貨を晴れ間が差し始めた空へかえした。一瞬太陽にも負けないほどの煌めきを青年の瞳に放つ。 「安心しろ。夜空よりもいいものを見せてやるよ」 |