「あっ!」

それはそれはわかりやすい不注意だった。私はお昼に購買でメロンパンと、それから、ゆりちゃんがおいしいと言っていた新発売のみかんゼリーを買おうと、授業が終わると同時に更衣室に駆け込んで体操服から着替え、袋に入れておいたお財布と腕時計をひっつかんで、時計をつける時間も惜しい、と思いながら更衣室に向かう女の子達の間をすり抜けていた。購買は運動部の男子たちがパンを買いに集まるので、あまり遅くなるととても混雑してしまうのだ。無駄に身体の大きい彼らがだらだらとしゃべっていっている間にこの任務を成功させなくては。
しかし、ちょうど角にさしかかったところで、事件は起きた。

早歩きで歩いているために上手くつけられない腕時計をもどかしく思っていた私は、曲がる拍子に人にぶつかってしまったのだ。まさに前方不注意。全身に来た衝撃で身体がよろめき、あ、と思う間もなく、手に持っていた時計が地面にダイブしてしまう。周りで歩いている生徒の、少し驚いたような視線を感じた。足を引いてなんとか倒れないようにふんばっているところで、消火器の横でがしゃん、という音が聞こえ、あわてて駆け寄り腕時計を拾い上げる。ガラスが割れている様子はないが、中の針は壊れてしまってはいないだろうか。確認するために手の中を見ようとした時、視界の端に入った、上履きと黒い足を見て、私はぶつかった相手と、謝りもせずにしゃがみ込んでしまっているという状況を思いだし、はっと顔をあげた。

「悪い、大丈夫か?」

こちらに向かって手が伸びてくる。蛍光灯を背にした大きな体、特徴的な髪。隣にいる男の子が、なんだどうしたんだよじょうすけえ、と言っているのが耳に入り、我に返る。じょうすけ、って、まさか。ひがしかたじょうすけ、くん?呟いた私の声は目の前の男の子には届かなかったようだが、間違いない。相手はなんと、同じクラスの、東方くんだったのだ。
私がぶつかってすぐにしゃがみこんでしまったことで、彼は自分がぶつかった衝撃で私が倒れてしまったのだと思っているらしく、そんなに強くぶつかったつもりはなかったやら、どこかいたいのかやらと口を動かしている。私は、ぽかんとまぬけに口を開きながら、その様子を見つめていることしかできなかった。

東方くんとは同じクラスで、彼は今私の斜め前の席に座っているけれど、たぶん一度も、いや確実に、入学してこの方しゃべったことはない。男子たちがはなしているのを聞く限り、優しそうな、ふつうの男の子なのだろうとは思うのだけれど、いざ本人を目の前にすると感じるのは、他の人よりもくっきりとした顔立ちとがっしりとした体格、改造された学ラン、男の子の言葉、そしてリーゼント。わかっていても、少し怖いと思ってしまう。しかも、最近よく一緒にいて、今も隣にいる虹村くんも、いつも姿勢が悪くて、声が大きくて、やっぱり私みたいな人間からしたら、親しみやすい男の子とはいえない。簡単に言うと、

(私はこの手をとるべきなの?それともこれを握ったらなにかされちゃうの?学校だからそういうポーズをとってるだけ?もしかして財布を出せっていう手?でも、悪いひとっていう訳じゃないし、きっと純粋に助けてくれようとしているだけで……いや、でも私が悪いのにそんなことしたら図々しいって思われて、もしかしたら女の子たちからも白い目で見られるようになったりしたら、)

どうすれば良いのかわからないのだ。好奇の目を向けながら遠ざかって行く生徒達。ひそひそと話す女の子のグループ。いやな汗がない谷間を伝っていく感覚がする。
ぐるぐると考えている間にしびれをきらしたのか、東方くんは差し出していた手を更に伸ばして、私の右手首をつかみ強引に引き上げてしまった。おおきな手のひらの感触にひっ、となさけない声が出る。女友達ならともかく、男の人に、学校内でそんなこと、されたことがない。彼はそのまま手のひらを開かせて、私が拾い上げた時計をのぞき込んだ。

「あ、あの…?」
「これ……」
「腕時計ぇ?なんだこれ、止まってんじゃねえか。」

いきなり近くなったリーゼントに驚く暇もなく、虹村くんまでもが身をかがめて、時計を見つめてくる。二人とも、不良っぽくガンを飛ばしているイメージしかなかったけれど、近くでみると、意外と目が大きくて整った顔立ちをしているんだな、と思ってから、なんだか気恥ずかしくなって、私も慌てて手の中の腕時計へと視線を移した。一秒、また一秒と時間がたっているはずなのに、3つあるどの針も動いていない。虹村くんの言ったとおり、止まってしまったようだ。

「俺のせい、だな。悪い」

そう言ってじょうすけくんは不意に顔をあげ、彼らよりもいくらか低い私と同じの高さで目を合わせてきた。ばつが悪い、そんな空気を醸し出している瞳の紫が、星のようにきらめいている。
そして彼はそのまま、こんなことを宣ったのだ。

「あー、なんだ。これ、俺が直してやるよ」




東方くんは私の時計を持っていってしまい、そのまま話しかけるのをためらっているうちに、放課後になってしまった。斜め前の席で立ち上がった東方くんは、また月曜日な、といって教室から出ていってしまう。
今日は金曜日、東方くんが私の時計を持っていってしまったということは、私は月曜日までそれを受け取ることができないということである。その間に直してくれるのだろうかとぼんやりと思ったが、あの時計はどう見ても自力では直りそうもない状況だったし、東方くんが悪いわけでもない、ごめんと謝ってくれただけでも十分すぎるくらいだ。しかしこれらを伝えることはできなかったため、私は月曜日まで時計を一時的にお別れした生活を送らなければならなかった。
はず、なのだが。

「ひ、東方くん……?」

お母さんにお使いを頼まれて亀友に向かう途中、カフェ・ドゥ・マゴのオープンカフェで、その東方くんを見つけてしまった。小さく呟いた私に先に反応したのは、東方くんの向かいで新聞を広げていた、外国人だろうか、東方くんよりも彫りの深い、けれどやはり整った容姿をした男の人だった。その人がこちらを振り返った後で、東方くんは彼の新聞の向こうからリーゼントを覗かせる。

「あれ、名字さん?」
「知り合いか、仗助」
「クラスメイトっス、その……普通の。」

男の人の低い声が日本語を発したことに少し安堵しながら、二人のいるテーブルに近づく。オープンカフェにいたことや二人が少しだけ日本人離れした容姿していることもあって、まるで外国の朝に迷い込んでいくかのような不思議な感覚だった。少し近寄り難い雰囲気もあるが、亀友に向かうにはここを通るしかないし、今引き返すのも不自然だろう。緊張したまま、テーブルの横で足を止めたところで、東方くんは改めてこちらを見た。

「あ、この人は俺の、えっと」
「親戚の空条だ。」
「は、はじめまして、名字です。東方くんにはいつもお世話になっております。」

私が頭を下げると、空条さん、というらしい男の人は、きりっとした目元をほんの少しだけやわらげて、ああ、と声をかけてくれた。近くで見てみると、はっきりとした顔立ちやきらきらと輝く光彩を隠した瞳は、どことなく東方くんに似ている。正確な歳はわからないけれど、低い声と落ち着いた仕草が大人の雰囲気を醸し出していて、クラスの女の子たちが見たらきっと、きゃあ、とかわいらしい声をあげるに違いないくらい、素敵なひとだった。そんな私達の様子を見ていた東方くんは、思い出したようにポケットの中を探り出す。

「ちょうど良かった。これ、返そうと思って」

開かれた大きな手の上に乗っていたのは見慣れた時計。昨日東方くんが直してくれると言っていたけれど、こんなに早く直してくれるとは思っていなかった。恐る恐る針を覗き込むと。

「直ってる!すごいね東方くん、こういうの得意なの?」
「得意というか、そんなに壊れてなかったんスよ。でも……」

照れたような顔でちらりと空条さんを見る東方くん。その目線を受けて、白い服を着た彼は小さく頷く。

「いや、教室で直さなかったのは良い判断だ。今は、どこで誰に見られているかわからないからな。」

空条さんは一瞬東方くんと目を合わせたあと、新聞に目を向けてそういった。これ、良く見たら英字新聞だ。やっぱりハーフの人なのかも。ありがとう、と言って大きな手のひらに乗せられた時計を受け取る。学校で止まってしまっていた秒針は一秒ごとにせわしなく動いていた。
そういえば、誰に見られているかわからない、って、どういう意味だろう。学校で機械いじりなんかしていて、見つかったら怒られてしまうかも知れないという意味だろうか。いや、空条さんは学校で東方くんが人気であることを知っていて、私と仲良くしている姿をクラスの誰かに見られなくて良かったという意味で言ったのかも知れない。空条さんほどかっこいい人なら、きっと高校生のときもとても人気だっただろうし、学校でトラブルを起こさないための先人の教えみたいなものかも。

そこで顔を上げると、怪訝そうな顔をした二人がいて、私は慌てて中途半端に握り締めていた時計を腕に付けた。また考え込んでしまっていたみたい、私の悪い癖だ。恥ずかしくなって、意味も無く時計をくるりと回してから、もう一度東方くんに向き直った。

「わ、私、お使いの途中だから、そろそろいくね。本当にありがとう」
「ああ、またな」

にかっと笑った東方くんに笑顔で答え、空条さんに向かって軽く頭を下げる。空条さんはやはり少しだけ表情を緩めて、頷き返してくれた。それからドゥ・マゴを離れて、予定通り亀友に向けて足を進める。一度ちらりと振り向くと、二人はなにやら話し込んでいるようで、私の方は見ていなかったけれど、遠くから見たその様子はやはり異国の朝のようだった。

今日は、なんだかとても良い日のようだ。いままで怖いと思っていた東方くんの意外な一面も知れたし、空条さんも、あまり会話は出来なかったけれど、とても素敵な大人のひとだった。きっとその二人のファンも知らないだろう不思議な空気に触れることもできた。明後日まで東方くんには会えないけれど、月曜日には何かお礼をしなければ。東方くんと、もう少し話がしてみたい、なんて、もしかしたら迷惑かも知れないけれど、お礼を渡すくらいなら大丈夫だろう。お財布の中身と、お母さんに頼まれた品々を照らし合わせる。東方くんは何が好きなんだろう。この余りで、なにか買えるだろうか。




今度はしっかりとつけられた時計を撫でながら歩く私は、少し浮かれていたのだ。
だから、

「お嬢さん」
あの時、思わず足を止めてしまったのだろう。
「とても、綺麗な手をしているね。」


振り返った先にいたスーツ姿の男の人は、東方くんや空条さんとは違う、真っ黒な澱みを孕んだ瞳を細めて、私にわらいかけた。

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