「分かってるの?」


いつも柔和な赤い目が知らない光を抱く。


「もう後戻り、できなくなる」


わたしをベッドに縫い付ける大きな手が悲痛に歪んだ。いつだってわたしを守り導いてくれる、暖かい手。普段よりしっとりとしたその手はすこしつめたくて、まるで知らないひとの手みたいだった。


「それでも良いの」


鋭い声。つられて動く喉も、触れる足も、ぜんぶが静かにわたしと音也くんとの差を囁いてくる。前に1度だけ触れたことのあるくちびるが、きゅっと結ばれた。頭を垂れた彼の影がわたしを覆う。音也くんが近くて、大きい。



「やだ、よ」


震えるくちびるがようやく発したのは、たった三文字の拒絶だった。グロスを塗っているはずなのにひどく乾いたような感覚がして、うまく動かせない。まばたきをするたびにマスカラが絡むような気さえする。
音也くんは知っているのだろうか。視界がぼやける。ファンデーションの下にあるわたしの肌の色、ラインのないわたしの瞳、制服の中のわたしの体、かたい城壁に囲われた、わたしの内側。息が詰まる。音也くんの赤い髪が高く離れ、手が解放されていくのを感じて、わたしの口は必死に言葉を作り出した。


「だめだってわかってる。怖いし、いや。でも」


わたしは知らない。笑顔のない音也くんの表情、濡れた音也くんの髪色、制服の中の音也くんの体、音也くんの、内側。なにも知らない。この数ヶ月で知ったこと以外はなんにも知らないの。それでも。



「もう我慢、出来ないよ」


ついにこめかみを涙が通り過ぎた。なるほど、これほど汚らわしい行為はない。反対側の目からも涙が滑り落ちる。
どんなに同じ時を過ごしたって、わたしは音也くんのすべてを知ることなんて出来ない。肌の色、傷痕、味。それらを知ることが出来たとしたって、例えばわたしには深海魚の一枚鱗のように見えるこのシーツの白が、音也くんにはどんな色に見えているのか、そんなことさえ一生わからないのだ。なにを思って、どうやってわたしを見ているのかなんて、尚更知ることは出来ない。
けれど知りたいと思ってしまった。出来ないと知っていながら、だからせめてその身体の温度だけでも、触れることで理解したいと思ってしまった。身体を理解することで、すべてを理解したかのような感覚を手に入れたい、と思ってしまった。そんなものは錯覚だと知っているのに。まるで分からないものは全て口に入れてしまえば良いと思っている、小さな子供みたいだ。なんて薄っぺらい、なんて欲深い。この欲深さが、きっとわたし達の罪なのだろう。
すこしクリアになった視界。なにかに耐えるように、音也くんの瞳が閉じられる。


「これでさいごだよ」


わたしの上の音也くんが、自分のブレザーのポケットからケータイを取り出した。こちらに向けられた画面のなか、笑顔を貼りつけたわたしと音也くんの二人が、わたしを見つめる。


「いやだったら今すぐ誰かに電話して。マサでも翔でも、もう龍也先生でも良いよ。飛んできて、オレを止めてくれる誰かに、今すぐ連絡して。そうじゃないなら」



ぽすり、ケータイの飛び込む音。静かに現れる、赤く濡れた瞳。



「オレの名前、呼んで」



きっと音也くんはこの罪深さを知っているのだ。それでいて、わたしのわがままに付き合ってくれている。汚れていないがゆえに汚れに幻想を抱いて、一番綺麗な姿を見せたいと望みまた一番綺麗でいてほしいたいせつな人に、自分を汚し、その返り血で彼をも汚すことを求める、このわたしの矛盾に。きっといつか今までのあたたかな触れ合いだけではいられなくなる。そんな簡単なことすら理解出来ないわたしの愚かさに。
すべてに目をつむってくれるその優しさに縋るわたしは、なんて虚しいんだろう。



「…おと、」



まるで、真実に耳を塞ぐように、音也くんのくちびるがわたしの声を飲み込んだ。
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