「すみません、お時間よろしいでしょうか」

扉の向こうから聞こえた声に、一番早く反応したのは阿修だった。ぴん!と背筋を伸ばしたかと思うと、疑問符を浮かべるA&Rを置いて一気にドアの前まで進んでいく。金城は変わらず目を台本の文字へと落としたまま、まるで名を呼ばれた犬が耳を立てたようだとひそかに思ったが、わざわざ口に出すようなことはしない。面倒だからだ。 芸能人を守るため、またはテレビ局の威厳を示すため、しっかりとした造りの楽屋のドアノブを回しながら、「どーぞどーぞ!」と阿修は喜色を声に乗せて来訪者を歓迎する。

「ごめんねー!こっちから行ければ良かったんだけど、ちょっと打ち合わせがあってさ!でももうすぐ終わるし、遠慮しないで!」
「でしたら、ここでご挨拶だけでも」
「だめだよ、ちゃんと入って!ほら!」

ドアの隙間から見える、遠慮がちに左右に振られた両手。それをリハーサルから変わらずグローブをはめられた阿修の右手が、強引にTHRIVEの楽屋の中へ引き込んだ。同様にシックな黒の衣装を纏ったままの少年が、つんのめった身体を支えようとタイルの上でヒールを鳴らす、その隙を見逃さずに、ピンク髪は入り口の扉をしっかりと閉めてしまった。体勢を整えた少年は少しだけ焦りを持って振り返って見せたが、有無を言わせない阿修の八重歯に押し黙る他ない。彼は観念したように軽く肩の力を抜いてから、白を基調とした部屋の中にいる一組のアイドルと、A&Rの新入社員をみとめて、丁寧に頭を下げた。

「本日お世話になります、名字名前です。よろしくお願いします」
「はい、こちらこそ本日は……、……。」
女性の声が止まる。顔を上げ、にこりと愛想よく笑った少年に、「えっ」と驚きを込めた反応をしたのは、澄空つばさただ一人だった。

空調に揺れる髪は自然な茶色で、切れ長の目と相まって華やかさは感じさせないものの、左右対称にひどく整ったパーツの並びは石膏像のような透き通った美しさを感じさせる。少年期特融の完成しきっていないアンバランスさ、ただただ瑞々しい肌の不安定さが、絶妙に彼を人間たらしめていた。すらりと長く若い肢体を隠す黒の衣装は、B-projectで用いられるゴシック的な黒でもパンク的な黒でもなく、禁欲的な空気を持って少年を守る。ヒールのきついブーツ、首元まで締められた銀のボタンもその全てが少年を、近寄り難くクールでミステリアスな「名字名前」を演出するために設計されていた。
故に多くの人間にとって、名字名前とは「近寄り難くクールでミステリアスな」人間であった。バラエティーには出演せず、ライブのMCも最低限、たまに出る音楽番組でもろくに司会者と絡まない、何よりミュージックビデオでやジャケット、パフォーマンスの最中ですら僅かにも笑みを作らずに、少年らしからぬ響きを持った曲を歌う、極めてクラシカルなソロアイドル。

もちろん、澄空にとってもそれは同様だった。業界人に対しても礼儀は尽くすが愛想は振り撒かない名字名前が、少し困ったような笑みを浮かべながら阿修のマシンガントークに答えている少年と、同一人物であるはずがない。混乱に目を白黒させる新人の様子に、彼女の隣に座っている愛染が笑みを浮かべた気配を感じて、金城は深く深く溜息を吐いてから、重い腰をソファーから持ち上げた。非常に不本意であり億劫だという表情を隠しもしない。いけ好かない男はこれを見てもまたいらない笑みを深めるだろうことは金城にも容易に想像できたが、わざわざ突っかかることはない。この件に関しては、不快感を飲み込んででも面倒事を避けた方が余程自分のためである。
足早に近付いて、入り口付近でいまだ少年にちょっかいを出している羊の頭を鷲掴み、寄せていた顔を引き上げてやる。

「そのくらいにしておけ阿修。名前も、嫌ならはっきり言え。鬱陶しいんだよ」
「痛いよごうちん!まだお話ししてる途中なのに!」
「うるせえいいから早く来い!」

そのまま阿修の首根っこをつかんで戻っていく金城と、文句を言いつつ笑顔で手を振る阿修に対して、名字名前はまたくすりと笑みをこぼして「いつもありがとうございます」と声を送った。言外の意味を受け取った金城は、しかし目線だけで返事をして、じゃれつくように暴れる阿修を元いたソファーに勢いよく放り投げる。乱雑な扱いに驚いたマネージャーを尻目に、自らも腰を下ろし、疲労感に任せて背もたれへと腕を乗せて天井を見上げた。これから起きることへの自己防衛も兼ねて。
一方で投げ捨てられた阿修も体を起こし、自分を気遣う澄空へ軽く手を振ってみせた。安堵の息をついた彼女は、そのまま少し息を潜める。

「あの、名字名前って仰ってましたけど、名字名前さん……ですよね?」
「他にいないと思うし、そうじゃない?今まで会ったことなかったっけ?」
「収録では何度か……でも、休憩時間もお一人でしたし、スタッフさんと話されてる時もその、いつも事務的というか」

少しうつむいて、そわそわと落ち着きなく机の上で視線を迷わせる澄空。慎重に言葉を選んでいる間に、隣にいた愛染が音もなく立ち上がったことに彼女はまだ気付いていない。その様子を微笑ましく思い、阿修は目を細めて若く純情な女性を見つめた。視線に気づいたのか、忙しなく動いていた彼女の瞳が自分に向いたのを感じて、阿修は顔に笑みを作る。

「うーん、それが名前くんの普通なんだけどね」
煮え切らない返答に首を傾げたことで、澄空の後髪が揺れる。軌跡を追ってから、すいと横にずらされた、羊の視線の先。

阿修と金城を見送った少年は、静かに立ち上がって悠々と歩いてくる青髪を静かに、しかししっかりと目に焼き付けていた。幼い熱を持った焦点を正面から受け止めながら、愛染もまた蕩ける様な瞳で見つめ返す。仲間やファン、今まで彼が関わってきた多くですら知らないであろう温度と湿度を持つ煮詰まった熱を、愛染は躊躇いもなく少年にぶつけていた。やがて彼の長身が少年の体躯を自身の影で収まるほど近づいたところで、長い脚は歩みを止める。
30cmを越える身長差に、目一杯晒された喉元と上げられた目線がもたらす優越に溺れること暫し。30cmを越える身長差に、引き付けられた顎と軽く畳まれた背骨の曲線に思いを馳せること暫し。二人にしか分からない何かしらのタイミングでもって、愛染が膝をついたと同時に、名前は一歩踏み出して距離をゼロにした。

「えっ」と再び上がった誰かの困惑など耳に入っていないのか、二人はそのまま互いの首と背中に腕を回し、偶然と必然によって整えられた顔を寄せる。かと思えばぱっと鼻先に距離を作り、たまらないといった様子で喉を鳴らす。

「健十くん、健十くんだ!」
「ああ名前、今日も最高にかわいいな」
「新曲の衣装なの?かっこいい!」
「昨日はロケだったんだろう?よく眠れた?疲れてない?」
「ぼくもね、新しく作ってもらったんだ!」
「ん、シャンプー変えた?いつもと違うにおいがする」

きゃあきゃあと上げられる声は可愛らしく、低く底を流れる声はひたすらに甘い。一折しゃべると二人はぴたりと、お互いの右頬を触れ合わせながら、一方はその感触の滑らかさを、一方はその温度を朗らかに語り続けた。
ソファーに座る三人からも、愛染の首に回された腕と名前の満面の笑みがよく見える。普段テレビや現場で見せる、人情のように整った色ではない彼の表情に、耐えかねた澄空は目を逸らし、顔の向きをぎこちなく正面の阿修へ戻した。彼の横で、金城は呆れを示したまま舌打ちする。

「あ、あの、しつこいようで申し訳ないのですがあそこでにこにこ楽しそうに、全く噛み合ってない会話をされてるのは、本当に、本当にあの、名字名前さんですか……?」
「うん、そうだよー。見たまんまじゃない?」
「い、イメージと違いすぎて……。愛染さんも、普段はもっとスマートというか」
「いつものことだ。めんどくせえ」
阿修も金城も全く驚いていないという事実は、澄空を更に混乱させた。二人にとって、いや四人にとって、この光景は日常なのだろうか?
もはやBGMと化した会話を模した二人分の独り言は途切れることなく続いている。いつまで続くのだろうか、ちらりと垣間見た、その瞬間。
愛染の両手が、名前の頬に触れた。そのまま包み込めてしまいそうな少年の顔は、彼の幼さと頭身の高さを強調した。同時に、愛染の刈り上げた髪、耳の裏に少年の親指が差し込まれる。細い指で遊ばれても揺るがない後頭部は、彼の成熟と、それ故の色気を漂わせた。それぞれの長い指は、ゆっくりと、しかし確実にお互いの頭を自身へと引き寄せている。これはよもや。本日三回目にして、最大音量の「えっ」が部屋の暑さにあっさりと溶けた。すごいものを見てしまったと頬を赤らめたり、見てはいけないものを見てしまったのではと顔を真っ青にしたりと忙しい澄空を見て、阿修と金城は顔を見合わせた。

「まあ、名前くんはけんけんの大ファンだからしょうがないよね」
「愛染が名前の、だろ。良い大人が気色悪ぃ」
「すぐおとなしくなるからそれまでこれ食べようよ!朝買ってきたコンビニスイーツなんだけど」
「俺は食わねえぞ」

阿修がソファーの上で膝立ちになり、背後の鏡前に置いてあるビニール袋を漁り始める。こちらでも会話を模したドッジボールが始まってしまった、と澄空つばさは頭の隅で思った。
目を逸らそうとした鏡の中でも、愛染と名前はどんどんと顔を近づけていく。ついに万事休すか、思わずぎゅっと目を瞑る。何故こんなことに巻き込まれているのかわからないが、プライベートのことであれば目を背ける他ない。上体まで縮こめ始めた彼女を見て、正面の二人が続く言い合いの合間に軽く笑った気配。
いつ目を開けたものかと暫く逡巡していた澄空は、阿修が金城にロールケーキを押し付け始めたのを合図に、喧噪にまぎれるように、薄く薄く瞼を上げる。直接見るのは躊躇われ、鏡越しに二人の様子を伺った。二人の頭部が重なり合っているのが見えて、澄空は肩を震わせる。だがよく見てみると、真っ当に不埒な想像通りの行為とするには、角度や距離が少し不自然である、それに気付いた彼女はついに、首を回して直接、愛染と名前を大きな瞳に映した。

青髪と黒髪に添えられた手はそのままに、しかし閉じられた唇と唇の間には、はっきりと距離が開いている。そのさらに上、伏せられた瞼を辿った先、子供が体温を測るように、あるいは何かを伝え合うかのように、ぴたりと合わせられたお互いの額。確認した澄空が安堵の息を吐いてソファーに座りなおす。愛染の前髪に配慮してか軽く触れ合うだけのそれに、不埒な想像をしてしまったことが恥ずかしくなり、脳内だけで深く謝罪した。正面二人のじゃれあいも手伝って、彼女の濃厚な妄想は甘いフルーツの香りの中に霧散していく。

更にほどなくして、二人は動きを逆にたどるように寄せていた身体を離し、膝を立てて立ち上がった。名残惜しいが、愛染にとっても名前にとっても、時間は等しく有限である。本番前に台本を確認していたTHRIVEの状況を考えれば、これが限界であった。

立ち上がった愛染は名前の細い手首をつかみ、ライブで曲終わりに観客へ手を振るのと同じ動きで、一喜一憂しながら自分たちを見つめていたひとりの熱いオーディエンスへと向き直る。メンバーの纏う空気が変わったのを感じて、阿修と金城はひとつ瞬きをした後、じゃれ合うために上げていた両手を静かに下ろした。彼の視界の端で名前は首を傾げたが、愛染の動きに従って普段通りの、名字名前の厚い表情をまとう。 人間の佇まいから、偶像の姿へ。夢から覚めるように、夢の中へと。急な変化にまだ状況を飲み込めていない彼女を引き込んでいく。

「つばさ」
完璧な前髪とウインク。転がすような声。
「このことは内緒ね。俺は良いけど、名前のことはないしょ。分かった?」

薄い膜を介した向こうで、男が笑う。美しいアイドルを前に、澄空の表情は遂に固まった。まだこの仕事に就く前、テレビの前で見ていたアイドル達の笑顔と同じ、ただ一面の白い光。先ほどまで眼前で騒いでいた二人も、憧れの人を前に感極まっていた二人も、もういなくなってしまったのだと、唐突に理解した。ただファンを魅了する、そのためだけに容易された装置が、澄空を見つめていた。

「お騒がせしました。今後ともよろしくお願いします」
冷たい瞳と拒絶を示す体、刺すような声。

相反する二つ。相対的な姿。強制ではなくお願いの形を取っていながらも、断らせない断固とした意志だけは、二人から共通に感じられる。誰にも言えるはずないじゃないですか、開いた口から声は出ない。澄空つばさは、これからどう名字名前・愛染健十への接したら良いのかと内心苦悩しながらも、結局は彼らに魅了された人形たちと同じように、ただ首を縦に振ることしか出来なかった。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -